10:軌跡

 
色々あったけれど、そろそろ結婚を考えている。
旧い知り合いにそう告げたところ、彼女はとても喜んでくれた。
 そして、彼女は一言こういった。
 『それで、彼はどんなひとなの?』
 ――正直、それまで彼がどんなひとか考えたことがなかった、というのは、我ながらなかなか間抜けな話だと思う。

 ジョン・ブラウンという人間について、真剣に考えたのはこれが初めてだ。おそらく。
 例えば、彼を表すときに、大体のひとは“優しい”という単語を使う。勿論、真砂子もよく使う。一言で彼を表すには確かに的確だったし、さほど親しくはないひとや初対面のひとにとってはわかりやすい単語だからだ。その次に出てくる言葉といえば“いいひと”だろうか。
 しかし、実際のところはどうなのか。彼がやさしい人間であることに変わりはないし、善人であることにいたっては疑いようもない。
 けれども、ただそれだけではない。彼のやさしさがどこからくるのか。彼の善悪の基準は何なのか。真砂子はそれを知っていた。

 ジョン・ブラウンという人間は神父である。
 彼のことを考える際、これは避けて通れないことだ。神父である前に男であり人間だ、というのは詭弁にすぎない。周りが思っている以上に(そして何より彼自身が思っている以上に)、本質と形質は結びついていて、どこからどこまでが本質でそして形質なのか、それはもうわからなくなっている。たぶん、彼自身にも。

 ジョン・ブラウンという人間は神父である。
 これは事実だ。
 例え、この先神父を辞めることになったとしても。

 「考えたら、あたくし、ブラウンさんのこと何も知りませんのね」
 翌日、新居となる予定のアパートを整理しながら、真砂子はぽつんと呟いた。
 2DKの部屋は、長く一軒家で生活していた真砂子にとっては少し手狭に感じることもあったが、若い新婚の新居としては妥当だろう。
 真砂子の言葉が耳に入ったのか、ジョンは二度、三度と瞬きをした。
 「ええと……この局面まできてそんなことを言われても、ボクとしてもどうしたらいいのか」
 「そうですね、とりあえずあたくしの間抜け加減を指差して笑えばよろしいかと思いますわ」
 ここ何年間で彼は随分冗談をいうようになった。これは、出会ってからの変化だ。
 逆に、気付いたことといえば――意外なことだが、彼は口が悪い。訛りに誤魔化されていたし、本人が意図的に変えようとしているのだから、なかなか気付かなくて仕方がなかったのかもしれない。しかし、ふとしたときに選ぶ言葉には、極々稀にではあるが、あまりお子様の教育によろしくないようなものもあった。まぁ、毒舌な人間ばかりで構成されているSPRにおいては、可愛いものではあったが。
 「知らないというと……なら、原さんは、どういうことが知りたいんでしょうか?」
 「ひとを詮索好きみたいにいわないでください」
 ふい、と真砂子は顔を背けた。
 「別に、特別何かを知りたいというわけではないです。あれから何年たったと思っているんです?通り一辺のことならばあたくしだって存じてますもの」
 「はぁ……まぁ、さいですね」
 「ただ……あたくしが知っているのはそれだけです」
 名前、連絡先、趣味、特技、主義、思想、嗜好その他。
 概ね、そんなものだ。
 「……それだけなんです」
 そんなものは、親しい人間だったら誰でも知っている。
 知り合いに、結婚相手について満足に説明することすらできないような、そんな程度だ。なんて情けない。
 「あたくし、ブラウンさんがどうして結婚なさる気になったのかすら存じませんもの」
 生は時間の連続体だ。
 時間を切り離して人間を語ることはできない。行動には必ず動機付けが必要で、動機は必ず過去にある。
 「それをいうなら、ボクも原さんがどうして結婚しようと思ったか知らないんですが」
 ジョンは苦笑する。
 「言葉遊びじゃありません――ブラウンさんはこれでよろしいんですか?」
 「は?」
 「……神父を、お辞めになるんですのよ」
 婚姻は――神父を辞めるということは、今まで彼が生きてきた二十数年間を否定することだ。
 神父であるということだけを否定できれば簡単だが、そうはいかない。
 信仰云々や神学的解釈の問題ではない。過去において彼が一度決めたことを翻したのだ。それにどれだけ意味があるのかを想像することは難くない。
 「よろしいんですか、それで」
 ブラウン神父はいなくなる。
 永遠に。
 「……神父を辞めても、ボクのすることは変わりませんから」
 ジョンは穏やかに微笑む。
 「神父であっても、そうでなくても、ボクのすることに変わりはありません。もっといってしまえば、神父だろうが何だろうが、しなくてはいけないことは決まっとるし、してはならないことも決まっとると思います」
 「……」
 「だから、神父を辞めることにこだわりはありません――まぁ、渋谷さんには『神父を辞めても除霊ができるとは限らない。はやまるな』ていわれましたが」
 内輪の祝事よりも有能な人材とは。なんともナルらしい。
 「でも、それもボクですから。たぶん、考えすぎとったんです、今まで」
 「……そうでしょうか?」
 「えぇ」
 考えて、考えて。
 それでもまだ足りないと、不安はつきまとうと、真砂子は思うのに。
 「……例えば、人間は生まれてから死ぬまで、砂浜を歩いていくとします」
 今ひとつ釈然としない真砂子の表情に気付いたのか、ジョンは少し思案すると、言葉を選ぶように話しだした。
 「ボクは今まで自分一人で歩いてると思ってましたし、それが正しいと思ってました。たぶん、それはこれからも変わらないです」
 真砂子は悟られないように唇を噛んだ。
 説教ならたくさんだ。
 他の信徒たちのように説きふせられてしまうのかと思うと、悔しかった。
 けれども続く言葉は意外で。だから静かに目を見張ることしかできかった。
 「歩くことは自分一人にしかできませんけど、そのとき、隣をおんなじように原さんが歩いていてくれたら、それはすごくすてきなことなんやないかと……ずっと歩いていって振り返った後についていた足跡が一つじゃなくて、二つあったら、きっと嬉しいと思います。だから、ですよ」
 「――」
 「始めから終わりまで、ボクの足跡は一本でしかありえないんです。神父になる前のボクも神父のボクも、それから神父を辞めた後のボクも、そこに区別はないんですよ――まぁ、これに気付いたのはつい最近ですけど」
 だから、いいんです。
 といって、もう一度彼は笑った。
 これがジョン以外の人間の口からでた言葉ならば、胡散臭いことこの上ないものなのだが、彼がいうと自然と納得できてしまうところが不思議だ。
 それすらも説教の免許を持っているからだろうか?と一瞬考えて、真砂子はそこで思考を止めた。
 馬鹿馬鹿しい。それらも全て含めて彼なのだ。彼が言ったとおりに。深く考える必要はない。
 「……あたくし、なんだかとっても損した気分ですわ」
 「え?」
 本当に、何を悩んでいたのだろうか。ほんの数秒前までの自分が恥ずかしい。
 何のことはない、ただ、怖かっただけなのだ。結婚するというとが――ほんの書面一枚で、今までのことが全て変わってしまいそうで。変わって当然だというのに。 時間は止まってはくれない。ひとところにとどまり続けることができない以上、変わり続けるしかないのだから。
 大事なのは、それを恐れるのではなく。今までの軌跡と、これからできるであろう軌跡を受け入れること。自分のものだけでなく、お互いに。そして、その認識を忘れないこと、だ。
 理解できたところで実行することは容易ではないのだろうけれど。それでも大丈夫だろう、きっと。今ならそう思える。
 「いえ、なんでもありません」
 不思議そうに此方を見つめる青い瞳に、真砂子はその日一番の笑みを見せた。







たわごと