15:夕闇 |
梅雨が明けて暫くした日の夕方、ディミータは一人で街を歩いていた。 今年の梅雨は雨が少ない割には長かった。降っては止み降っては止みを繰り返し、梅雨が明けるころにはいつの間にか7月も半ば近くなっていた。 夏の始まりの夕方。 ねっとりとした空気がまとわりついてくるが、まだそこに吹く風は爽やかだ。 西陽に照らされて、街が綺麗に赤く染まっている。 そこかしこが赤い光を反射して、世界そのものが真っ赤になってしまったようだ。 夕焼けをみているとそのまま溶けてしまいそうな気分になる。それは、ディミータの毛並みの色のせいだろうか。 ふと、ディミータの視界の端で何かが動いた。 嫌というほど見慣れた――そして、ここ最近、ぱたりと姿を消したもの。 瞬時にそれを捉えると、ディミータは駆け出した。 段々と呼吸が苦しくなってくるくらいに走っているというのに、なかなかそれには追いつけなかった。 付かず離れずの一定の距離を保って、それは移動を続ける。 こちらと同じように向こうも動いているというのに、あちらには疲れがたまっているような素振りは欠片もない。 ディミータの体力がないわけでは決してない。 マンカストラップやランパスキャットには流石に劣るが、並の雄猫連中とは同じくらいには動ける自負があったし、それはまた事実でもあった。 それなのに、だ。 ――あいつって、こんなに体力あった? 疑問に思いながらも、ディミータが足を止めることはない。 ただ、必死に前を行く相手を追いかける。 ようやくディミータがそれに追いついたときには、街外れの――街と街との境界まですぐそこという場所まできていた。 唐突に足を止めた相手に向かって、ディミータは声をかける。 「――どこへ?」 上がりきった呼吸ではそれだけ問うのがやっとだった。 それはゆっくりと振り向くと、ディミータの問いにはこたえず、にこやかに「こんにちは」といった。 「どこへいくつもり?」 呼吸を整え、今度ははっきりと問いただす。 「別に、どこに行こうと君には関係ないことだと思うけど?」 「……」 相手のいうことは的を得ていた。 相手がどこに行こうとディミータには関係ないし、それをどうこういう権利だってない。 それでも、その行動は気になった――放っておいてはいけないと。ここでそれを見逃せば、やがて街全体に害をなすような……嫌な予感がした。 「ここでは一々どこに行くのかも誰かに断ってからじゃないといけないのかな?」 「――そんなことは……ない、けど」 ディミータは口ごもる。 そんなことは決してない。 そもそも、相手がきちんと梅雨の間も姿を見せていればこんな不安は抱かなかっただろう。 梅雨の間、一度も――誰にも姿を見せなかったもの。 梅雨の最中に会見えたもの。 そして、梅雨明けと同時に再び姿を現したもの。 誰にも話していなかったが、これらを結びつけるのはディミータにとって容易だった。 つまるところ、その理由は一つのところに帰結する。 「嫌なのよ。余所者にうろちょろされるのは」 「へぇ?」 と、相手は面白そうに嘲笑う。 「何がおかしいのよ」 「いいや。よくそんなことがいえたもんだと思って」 「!」 反射的にディミータは相手の名前を叫んでいた。 文字にならない声をあげて相手に飛びかかり、その黄色い毛並みに爪を立てる。 街でも一番体格のいい相手だ。正面から組み合って勝てる見込みなんて欠片もなかったが、それでも構わなかった。 何度か揉み合ううちに爪が割れ、指先に血が滲む。腕にも幾つか裂傷ができたが気にしてはいられなかった。 ――余所者は、排除しなくてはならない。 「っ……!」 鈍い音がした、そう認識するのとほぼ同時に背中に痛みが走る。地面に叩きつけられたのだ。 立ち上がる間もなく、腹の上に衝撃が加えられる。肺から空気を吐き出す嫌な音がした。 「あ、ごめん。やりすぎた」 頭上から降ってきたのは場違いなくらいに呑気な声。 「でも、これって一応正当防衛だと思うんだけど」 ディミータを起こしながら、それはすまなそうに言った。 過剰防衛だ、と返してやりたかったがうまく喋れそうにない。 ディミータは何度か咳込み、深呼吸を繰り返す。落ち着くまでには少し時間がかかりそうだったが、別段大きな怪我はしていないようだ。 「時間だから行くね――どこに、なんて訊かないでね。まぁ、そんな気もおきないだろうけど」 悔しいことに、相手は全くの無傷だった。 爽やかに吹く風に、夕陽を受け黄金色に染まった毛並みを揺らしている。 ――勝てない。 ディミータはきつく唇を噛んだ。 それは歴然とした事実で以前からわかっていたつもりだったけれど、改めて目の前に突きつけられると想像以上に衝撃は大きかった。 「…………いつか、」 急速に辺りが暗くなってくる。 陽が落ちているのだ。 夕焼けの残滓は赤黒く、先程綺麗だと思った赤の欠片もない。 醜く、変色し、歪んでいる―― 普段はみえないものだ。 「殺してやる」 「それで君の気がすむなら」 それだけいうと、相手は立ち上がり、ディミータを背に歩き出した。 その後ろ姿は夕闇に呑まれてすぐに見えなくなる。 ――化け物の口に向かって歩いていく。 そんなようだ。と、ディミータは内心で呟く。 後に残されたディミータは、辺りが完全に暗くなりまでの間、それが去っていった方向をじっと見つめていた。 |
たわごと |