街外れの塀の上に猫がいた。
 その猫は、いつも決まって、晴れた日は一番日当たりの良い場所に陣取り、雨の日には、近くの民家の軒下にいた。
 することは、いつも同じ、ひたすら眠るだけ。
 いつみても眠っているが、ときたま、方耳をぴくんと動かしたり、鼻をひくつかせたりしている。
 彼がそこで何をしているのか、本当のところは誰も知らない。

 雨の運んできた土の香りが鼻についた。
 降り始めの雨は、埃っぽくて好きではない。
 ジェニエニドッツは顔をしかめると、誤魔化すように鼻をならした。
 「風邪?」
 と、いつの間にか合流したジェリーロラムが聞いてくる。
 「いや」
 そういえば、風邪なんぞというものとは随分無縁になったものだとぼんやり思う。風邪なんぞに負けているようでは、 あの悪ガキどものお守りはつとまらない。
 「ただ――……あまり、よくない気がして」
 「体調が?」
 と、タントミール。
 「言い方が悪かったね。――勘、だよ」
 嫌な予感がする。
 と、付け加えると、ジェリーロラムもタントミールも押し黙った。
 「いそごうか」
 どちらにしろ、日が暮れたら終わりだ。嫌な予感もくそもない。

 彼はいつも眠っている。
 彼が起きることは滅多にない。
 ちゃんと餌を食べているのかもわからない。
 けれど、彼は生きている。
 彼はいつも眠っている。
 けれど、彼は見ている。
 閉じた瞳は何も語らない。
 彼は何も語らない。
 それでも、彼は知っている。
 この街に怒るすべてのことを。
 瞼の裏の黄金の瞳で、今日も、すべて、見ている。

 その場所に着くと、ジェニエニドッツは足を止めた。
 「久しぶりだね――それとも、はじめまして、というべきかい?」
 塀の上で眠る一匹の猫。
 茶色の毛並みにところどころ黒が混じっている。どこにでもいそうな猫だ。おかしなところがあるわけでもない。
 ジェニエニドッツの声に応えるように、ほんの少しだけ耳を動かし、尻尾を持ち上げたが、それっきり。起きる様子もない。
 ジェニエニドッツはそれを大して気にも留めずに先を続けた。
 「“赤線”のことで話がある……起きているんだろう?」
 それでも、彼は動かない。
 「残念ながら、私は気が短いんだ。これ以上焦らすなら、あんたの寝床にゴキブリをけしかけるよ」
 と、いうと、ようやく彼は顔を上げた。
 のんびりと欠伸をして、四肢を伸ばす。
 半分眠ったままの瞳をゆっくりと開き、こちらへ向ける。
 綺麗な黄金色の双眸だ。
 「さすがにゴキブリとは共存する自信はありませんな」
 「できたら私は心底あんたを尊敬するよ」
 後ろでタントミールが何か言いたそうな表情をしていたが、気にしないことにする。
 深く呼吸をして、ジェニエニドッツは切り出した。
 「ウチの子がひとり中に入っちまった」
 「ひとり?」
 と彼は訊き返す。
 「嘘はいけない。何人も、だ?」
 「他はその子を連れ戻すためだ。数には入らない」
 やれやれ、とでもいうように彼は肩をすくめ、欠伸を一つ。
 「少し前に、白地に赤と灰の三毛の女の子が中へと」
 「その子だ――今どこにいる?」
 「わかったところでどうする?我々は、あなたたちが中へと入ることは許可していない」
 彼はさして興味もなさそうに、ゆっくりと爪の手入れを始めた。
 ジェリーロラムが口を開き、反論しようとする。
 ジェリエニドッツはそれを手で押しとめた。視線でジェリーロラムを黙らせ、ゆっくりと首を横に振る。
 「“赤線”の権利書だ」
 もっていた紙を、塀の上の彼からも見えるように高く掲げた。
 「これがある限り、あんたたちは、私たちに手を出せない」
 たかだか紙一枚。
 文字にすらならないそれ。
 こんなものに守られているなんて、考えただけでも鼻で笑いたくなるけれど。
 「――――……仮に、そうだとして、私に何を期待する?」
 「ウチの子たちの安全。それだけさ」
 それ以上でも、以下でもない。
 ただ、無事に帰ってきてさえくれれば。
 「――……」
 諦めたかのような溜息を一つつくと、彼はすっと立ち上がった。
 ヒュー―――と、高い音がする。
 口笛のようなもの、なのだろうか。しかし、彼の唇が動くことはなかった。
 高低をつけて、音がひろがっていく。
 「……これで、そちらの者たちの安全は保証されるでしょう」
 「随分簡単だね?」
 不審げに問うと、彼は低く笑った。
 「あそこに言葉は必要ない」
 「それもそうだ」
 ジェニエニドッツが答えたときには、彼は再び眠りの態勢に入っていた。
 身体を丸めて、顔をうずめる。
 「あまり、こういうことをされると困る」
 「悪かったね、わずらわせて」
 「二度目はない」
 「感謝してるよ」
 その言葉は果たして彼に届いていたのか。
 返事の代わりに返ってきたのは、規則正しい寝息だけだ。
 「――……これが、“赤線”のヘッド?」
 呟くようにジェリーロラムがいう。
 「そうさ」
 「いつもいるな、とは思ってたけど」
 「舞踏会にも来てないし」
 タントミールの言葉にジェニエニドッツは苦笑した。
 「来る必要ないのさ。そんなことしなくても、こいつには全部わかってるんだ」
 「わかってる?」
 「そう。こいつは此処にいながら私たちのことも、赤線のことも、何もかも、見ている」
 閉じているはずの黄金の瞳で。
 それでも、彼は知っている。
 「――わからないことだらけだわ」
 「知らないほうがいいさ」
 「どうして、おばさんは知っているの?」
 「年の功」
 たまたま、その時代から生きていた。
 ただ、それだけだ。
 「さぁ、役目は終わったよ」
 そろそろ戻ろう。と、二人を促す。
 「あの子達、きっと何も食べないで帰ってくるだろうから。ご飯の支度――……手伝ってくれるだろう?」
 「えぇ」
 と、タントミールは曖昧に頷く。
 ジェリーロラムは、眉根をよせ、険しい表情で彼を見つめていた。
 「ジェリー?」
 「結局、なにもできないわ」
 ジェニエニドッツは何と答えようか迷ったが、苦笑し、「仕方がないさ」といった。
 「確かに、私たちには何もできないね。体力も腕力もない。立派な非戦闘要員だ。でも、あの子たちに何ができる?あたたかいごはんと笑顔で「おかえり」って言ってあげることだって大事さ」
 納得できたのかどうかはわからないが、ジェリーロラムは、「そうね」と呟いた。
 「後で絶対に一発殴る」
 「私も。戦闘靴もってこよう」
 「殺さない程度にしておきなよ」
 それは、明らかに強がりから来るものだったけれど。笑いあって家路につく。
 前を歩く二人の姿は、儚げなようで、どこか頼もしい。
 ジェニエニドッツも二人の後を追い、歩き出した。
 ふと、視線を感じて足を止めた。振り返れば、閉じていたはずの黄金の瞳が開いて、こちらを見つめていた。
 視線があうと、あからさまに瞳を三日月形にゆがめて、ニヤニヤ笑いをする。
 けれど、それも一瞬のことで、すぐに飽きたように目を閉じてしまった。
 ジェニエニドッツは内心で舌打ちをし、喉の奥から声を絞り出した。
 「――……モーガン、か……」
 閉じた瞳は開かない。
 彼が眠っているのかどうか、それはわからなかった。




>>next










戦闘靴っていうのは、靴の先っぽが尖ってて、その先に鉛の塊が入っている特注品です(笑)。
猫が靴履かないとか突っ込まないでください。
モーガンについての弁解と補足はすべてが終わった後にほざきます。
反則気味でごめんなさい。

あとちょっと……!!


(モーガンを知らないという方へ>原詩にのみ登場する猫です。門番猫のモーガン氏というのが原詩に出てきますので、そちらをどうぞ。って書くと回し者のようですね(オイ)。