物心ついたときにはすでに彼女は独りだった。 ぼろぼろになって寒さに震えながら、人家の軒端で雨を防いでいたのはいつからで、そしていつまでだったのか。そんなことはもう覚えていない。 けれど、それはすごく冷たくて不安で――悲しいことだった。 その時の感情が寂しいというものだと気付いたのは随分後になってのことだ。 つまるところ、彼女は寂しいという感情を覚えるまでは独りでなく、寂しいという単語を知った頃には独りでなくなっていた。彼女が独りであった期間はその間の、ほんのわずかな時間だけなのだ。 夕方になってポツン、ポツンと降り始めた雨はいつの間にかさぁさぁと降り注いでいる。この分ではバケツをひっくり返したようなどしゃ降りになるのは時間の問題だろう。 「……あめ」 彼女は呟いた。 雨は嫌いだ。 嫌でも、あの頃のことを思い出してしまう。 冷たくて不安で悲しくて――寂しいという単語を思い出すということは、独りであることを自覚することと同義だった。 不愉快な思考を追いやるように頭を振り、彼女は歩き出す。街灯があるにも関わらずその先は暗く、辿りつく場所がどこになるのかはわからなかった。 * * * 夏の夕暮れは長い。日が沈んでもなお辺りは暫くの間オレンジ色に染まっている。 それが今日はない。雨が降っているのだから、あたりまえといえばあたりまえだ。その代わりに灰色のグラデーションが視界をモノクロームに染め上げている。 「――……さん――……お嬢さん」 ふいに呼び止められてジェミマは足を止めた。振り返れば、周りにとけ込むように濃い灰色の毛並みの猫がいた。 「こんなところで何をしているのですか、お嬢さん?」 知らないひとだ。 と、ジェミマは思った。その猫の毛並みはお世辞にも艶やかな毛並みとはいえなかった。薄汚れていてよくわからないが、もしかしたら、灰色ではなく元の毛並みは白なのもしれない。 「ここはあなたのようなひとがくるところではありませんよ」 そう言う声は妙に甲高く、かといって女の声でもない。若いようにも、年寄りのようにも聞こえる――意図的に声を変えているような(もっとも、そんなことが実際にできれば、だけれども)、そんな気がした。 「ひとを探してるの」 答え、初めてそんな目的だったのか、と気付く。 「それはどなた?」 「……わかんない」 用事のある相手なんていないのだから、わかるはずがない。 ――誰にも、必要なことなんてないのだから。 「それならば早く帰ったほうがいい。こんなところにいつまでもいるものではありませんよ」 「無理よ。帰れない。道がわからないもの」 闇雲に歩き続けたせいで、どこをどうやってここまで来たのかもわからない。目印を辿ろうにも、歩くのに必死で周りなんて何もみていなかった。 「それは仕方のないことですね」 金色の瞳が三日月形に歪み、口角をあげると、チェシャ猫のようなニヤニヤ笑いを作り出す。 それを見て一番に浮かんできたのは嫌悪感。 得体の知れない笑みの奥にぽっかりと暗くて深い穴が口を開いて待ち受けているような。 ――――嫌だ。 なんだかよくない感じがする。 此処には、このひとのいるところには、いたくない。 逃げないと。一刻も早く。 そうでなければ、この先もっとよくないことが起こりそうな気がする。 目の前の猫から神経は逸らさずにあたりの気配を窺い、ジェミマは思わず声をあげそうになった。 囲まれた……!? 確証はないが確信はあった。 自らの周囲を遠巻きに囲む複数の気配。それに微かに混じる四方からの視線。 間違いない。ジェミマと目の前の猫を中心にそれらは包囲網を築いている。そして、その包囲の目は心なしか段々と狭くなっている気がする。走って逃げるのは無理そうだ。 ――上なら。 反射的に近くの廃ビルを見上げると、その二階部分にはやはり見知らぬ猫がいた。視線が合うとあからさまに嘲いを浮かべる。 「どうかしましたか、お嬢さん?」 時間はあまりなさそうだ。地面を走って逃げるのも、ビル伝いに上へ逃げるのも無理。 これが物語ならば、どこからともなくやってきた放浪の王子様が悪者をやっつけてくれるのだけれど。そんなことは到底望めそうにない。 そんな都合のいいひとなんていない。庇護の対象はとうの昔に彼女から他の子に移っていた。 ――だったら、自分でどうにかするしかないじゃない。 腹さえくくれば後のことは早かった。もう一度、素早く周囲を見渡し、最も包囲の薄そうなところを確認する。 いち、にぃ―― 「お嬢さん?」 さん! のタイミングで、ジェミマは地面を蹴って正面へと駆け出した。 * * * 走って、走って――これ以上はもう走れないというくらい走って。それでもまだ走って。 ようやく足を止めると(というより、止まったといったほうが正しいのかもしれない)、その反動でか地面に転んでしまった。顔から転ばなかっただけでもよかったとしよう。 幸いなことに周りに他の気配はない。どうやら逃げ切れたらしい。 疲れた脚を叱咤して、一番近くにあった廃ビルの軒下に身を寄せる。身体はすっかり雨に濡れて冷えきっていたので、今更雨を防いでも大して意味はないのかもしれないが、それでも何もしないよりはマシだろう。 火の気も何もなかったが、季節柄、雨を凌げば凍えて死んでしまうことはない。ねっとりとした埃混じりの風が廃ビルの壊れたガラス窓から入ってくる。身体が乾くのに然程時間はかからなそうだ。 そこでようやく一息ついて、リノリウムの床に座り込んだ。滅茶苦茶に走ったから今いる場所がどこなのか見当もつかない。否、そのまえから自分がどこにいるのかわからなかったのだから、余計わからなくなったといったほうが正しいのだろう。 どちらにしろ、最悪だ。 居場所がわからなければ、帰るに帰れない。 迷子になったときの鉄則は、「とりあえずその場を動かないこと」だが、このパターンではその案は却下だ。今は他に誰かがいる気配はないが、完全に日が暮れればそれも確かとはいえない。此処を寝床にしている他の猫がいないとは限らなかった。 悠長に助けを待っている時間はなさそうだ。 そもそも、誰かが来てくれるという考えが甘いのだ。 此処に来ることは誰にも話していない。 それ以前に、此処に来てはいけないとあんなに言われていたのに。 勝手に約束を破ったのはジェミマ自身だ。 街の共同体は弱者には庇護を与えてくれる。その代わり、いつか成長したら与える側になるのだ。ジェミマはいつのまにか、与える側になっていた。ただ、それに自身が気付かなかっただけだ。それだけならば特に問題はない。遅かれ早かれ、いずれ自分で気付くことだ。それまでに何度か年長者に怒られるかもしれないが、その程度のことだ。 しかし、共同体は規則と規律を乱す者には容赦がない。そうでなければ共同体が内側から瓦解する。多少のことならなんとかなるかもしれないが、共同体の――ひいてはそれを構成する街の皆の安全と比べれば、間違いなく個人よりも共同体を優先するだろう――しなければならない。少なくとも、リーダーならばそうするはずだ。 ようは、ここで待っていても誰も助けてはくれないということだ。 たかだか一人を助けるために危ない橋は渡れない。約束を破った時点でジェミマは共同体から排除されてしまったのだ。 「…………馬鹿だ、あたし」 声にだした言葉はがらんどうの空間に虚しく響いた。 たった一度、約束を守れなかった。 どうしてもっと考えなかったのだろう。落ち着いて考えれば、それがどれほど馬鹿な行為かすぐにわかるはずなのに。 そのまま深淵まで沈んでいきそうな思考を打ち破ったのは、ガタン!という大きな物音だった。 「!?」 反射的に音のした方向と他の気配を探る。 ――みつかった!? 先程の連中にみつかったのか、それともやはりここは誰かの寝床だったのか。 音を立てた主は自身の気配を隠すこともしなかった。殺気こそはないが、背後から圧倒的なプレッシャーを感じる。背後にあるだけでこれほどの存在感なのだから、実際に顔を見たらどんなものだろうか。 振り返らないと。 と思うまでにかかった時間はおそらく数秒だろうが、ジェミマにとってそれはとても長いものに感じられた。 深く呼吸をして、覚悟を決め、ゆっくりと首を回し始める。 「探したぞ、馬鹿娘」 聞こえてきた声の主を特定するには、完全に振り返るまでもなかった。 |
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