音箱 |
人間の世話になっていた頃の記憶はもう朧にしかなく、彼女の顔を思い出すことも困難になって久しかった。 それでも断片的に記憶の中にあるのは、雨音と、歌、栗色の長い髪――それから、銀の鍵盤から流れる旋律。 彼女がそれからどうなったのかは知らないけれど、ただ、一つだけわかることは、あのころの彼女はしあわせだったのだろうということ。 * * * 猫に職業があるわけではないので(物好きな鉄道猫を除くが)、概ね各自毎日平和に過ごしているのだが、それでもそれぞれ日課のようなものはある。 ミストフェリーズなら怪しげな魔法の研究。マンゴジェリーとランペルティーザなら泥棒(これはあまり歓迎すべきことではない)。ガスやジェリーロラムは芝居の稽古といった具合に。 マンカストラップにとってはそれが街の巡回であった。今日も今日とて街を回りながら仔猫の相手をし、泥棒二人を追いかけ、ジェニエニドッツの手伝いをし、タガーをしばきたおし……と中々に忙しい時間をすごし、教会に戻るころにはもう夕刻だ。 ただでさえ忙しい毎日なので疲れることには疲れるのだが、今日の疲れ方はまた少し違ったものだった。何故だろうかと思い返してみてもさして思い当たることもない。まぁ、こんな日もあるだろう、と思いながら教会内で簡単な雑事をすませる。 マンカストラップがその日一日のやるべきことをおえて一息つくと、ランペルティーザがシラバブをつれてやってきた。 「ねぇ、マンク」 「?」 「これ、なおして」 怪訝な表情で見返すと、ランペルティーザは「これ」といって、ボロボロの紙でくるまれた妙なものをさしだした。 「なんだこれは?」 「知らない」 「これをどうした?」 「さっき拾ったの」 「拾った!?」 また他所様のものに手を出して……との意味を込めて声を荒げると、ランペルティーザはさっとシラバブの後ろに隠れた。 「持ち主に返してきなさい」 「だってぇ」 「だって、じゃない」 「ゴミ捨て場で拾ったもん」 「……」 ようは、これは廃棄物なのか。 「あのね、それすごくきれいなの。もったいないから、バブがほしいっておねがいしたの」 それならば仕方がない、とでも言わんばかりに(それでもおもいきりしかめ面をして)マンカストラップは溜息をついた。 「みせてみろ」 それを受け取り、マンカストラップは幾重にも巻かれたボロ紙を丁寧にはがしていった。 中から現れたのは木製の箱で、その上蓋部分にはアンティーク・ゴールドの丁寧な細工が施されている。 「音が鳴らないの」 「かわいいおとがするんでしょ?」 蓋を開けると、下半分はビロードで覆われた宝石箱のようなっていて、上半分は剥き出しの木だ。その上部分に小さな穴が開いている。その部分にぴったりと合いそうな螺旋が宝石箱の中に落ちていた。 ――オルゴールだ。 * * * 彼女には好きなものが沢山あった。 彼女は甘いものが好きで、綺麗なもの、可愛らしいもの、およそ人間の女性が好みそうなものは殆ど好きだったのだろう。 けれど、彼女が大切にしていたものというのはその中でも極々限られたものであったように思う。 その証拠に、彼女の家には物が殆どなかった。逆にいえば、彼女は本当に好きで大切なものしか手元に置いていなかったのだろう。 そして、彼女の生活の中心には彼がいた。 名前は知らない。というよりも、覚えていない。 頻繁に彼女の家にやってきて過ごしていたし、彼女も頻繁に彼のところへ出かけていた。 彼女は雨がふるとよく小さなオルゴールを取り出して、その音を聴いていた。いうまでもなく、何時だったか、彼が彼女に贈ったものだった。何故雨の日にしばしばそんなことをしていたのかはわからない。けれど、それは彼女にとってある種習慣のようなものだったのだろう。もしくは、儀式めいた何か。雨がふっていないときでも、彼女は嬉しいとき、悲しいとき――特別なことがあったときはそのオルゴールを鳴らしていた。 ある日、やはり彼女がオルゴールを鳴らしていると、一本の電話がかかってきた。電話相手と二言、三言言葉を交わすと、彼女は慌てて家を飛び出していった。余程慌てていたのだろう、財布と鍵だけを引っつかんで、雨の中傘も何も持たずに。彼女がいなくなった部屋では、オルゴールが演奏の丁度山場を迎える部分で螺旋が切れて止まってしまった。 帰ってきたとき、彼女は比喩ではなくずぶ濡れだった。その後、彼女は散々泣いて、泣き疲れて眠ってしまった。 あの日、何があったのかは未だにわからない。ただ、あれ以降、彼女はずっと泣いていた。 あんなにずっとやって来ていた彼はぴたりとこなくなった。こんなときにこそ来ればいいのに。何故来てはくれないのだろう、とそう思った。 そんな日々がしばらく続いた後、また雨が降った。 いつものように彼女はオルゴールを取り出すと、螺旋を巻く。 聴き慣れたメロディが二度、三度と流れそして止まる。 何度かそれを繰り返した後、オルゴールの音とも、螺旋を巻く音とも違う、硬く鈍い音が響いた。 ――螺旋を引き千切ったのだ、彼女が。 そのとき、彼女は泣き止んでいた。 マンカストラップが彼女の家を出たのは、その日の夜だった。 * * * 「ランプ……これはゴミ捨て場に落ちていた?」 「ううん。落ちてないよ。女の人が捨てていった」 「栗毛の……髪が長くて、色の白い?」 「たぶん……」 マンカストラップはゆっくりと蓋を閉じた。 では、彼女はもう吹っ切れたのだろうか。それとも諦めてしまったのか。 「どうだった?」 「どうって?」 「いや……元気そうだったか?」 「わかんないよ、そんなの。ねぇ?」 と、ランペルデティーザはシラバブに同意を求める。 「あ、でもでも!きっとしあわせそうだったと思うの!だって、女の人、赤ちゃん連れてたし。だから隣にいたのきっと旦那さんだと思うの!」 「――そうか」 隣にいた人間が彼なのかあるいは全く違う人間なのか。それはマンカストラップの知るところではなかったが、彼女が今それでしあわせであるというのならばそれ以上のことはきっとない。 捨てることでしか吹っ切れなかったのかと思うと、それはそれで寂しい気もするが、これが彼女なりのけじめつけかただったのだろう。 ――あるいは。 「きっと、前の持ち主はもうこの音に鳴ってほしくないんだよ」 えぇぇー。と仔猫二匹は不服の声をあげる。 「誰にも、聴いてほしくないんだ」 あの日、螺旋を引き千切ったのはこの音をこの世から消し去ってしまうためではなく。 彼女の中だけに閉じ込めておくためだったのかもしれない。 宝物入れとしてつかいなさい。 と、告げると、ランペルティーザは渋々と、シラバブは聞き分けよく頷いた。オルゴールとしてはガラクタでも、その箱はそのままでも十分に綺麗だったからだ。 仔猫二人が仲良く部屋を出て行くのを見送ると、マンカストラップはそっと溜息をつき、瞳を閉じた。脳裡ではあの頃の彼女の笑顔と、聞こえるはずのないオルゴールの音が静かに響いていた。 |
あとがき |