ピアノ マン

 ポーンと、かん高い音が教室の中に響いた。
 調査で訪れた学校は、下校時刻をとうに過ぎ、静まり返っていた。
 夏の夕暮れは長い。
 日はとうにくれたというのに、まだ夕焼けの残滓が空に残ってあたりを橙に染めている。
 「――弾けるんですか、ピアノ?」
 金髪の神父が鍵盤を弾いたのが意外で、真砂子は訊いた。
 「弾けるというほどでは」
 と、ジョンは苦笑する。
 「譜面通りになら、少しだけ」
 「それは充分“弾ける”といいますのよ、ブラウンさん」
 「そうかもしれませんね」
 含みをもったその言い方が気になったが、真砂子が口を開く前に、ジョンが「何か視えましたか?」と言ったので、訊きそびれてしまった。
 「いいえ、特には……」
 「さいですか」
 霊はいないけれど、何せ学校は広い。少しでも潰しがきくように、一応、念のため、教室を清めておいたほうが良いだろうということで二人の意見は一致した。何せ、我らが所長サマは無能な人間には容赦がないのだから。
 真砂子はジョンが教室内を清めていくのを黙ってみていた。
 穏やかな声が静かに聖書を読みあげる。
 「天に坐す我らが父よ――」
 慣れた手つきで聖水を扱い、十字をきる。
 除霊のときの、彼の姿が好きだった。
 張り詰めた糸のような緊張感のなかで凛とした姿勢がよく映える。
 それは、彼が教会で祈りを捧げるときも同じだった。
 春の明け、夏の宵、秋の夕、そして、冬の朝。季節の一番綺麗な瞬間の空気を身に纏っているようで、みているこちらまで清々しくなれるようだった。
 もっとも、神父であることが一番の障害だというのに、神父としての彼が好きだというのは皮肉なはなしだ。
 「――イン・プリンシピオ」
 ただ、いつからか(もしかしたら、最初からそうだったのかもしれないが)、時折そのなかに微かな翳りがみえるときがあり、真砂子にはそれが気にかかっていた。
 「終わりましたよ、原さん」
 真砂子はその言葉に我にかえった。
 どうやら、見惚れていた間にすべて終わってしまったらしい。
 「相変わらずお見事ですね」
 「いいえ。まだまだですよ」
 師には到底及ばないと、彼はいった。
 彼を神父として育て、祓魔のいろはを教えた人間。
 ジョンの師を、真砂子は知らない。
 ただ、このジョン・ブラウンという人間の師匠である時点でただ者でないことだけは確実だ。
 「ピアノも、その方に習ったんですか?」
 真砂子の問に、ジョンは一瞬、驚いたようにきょとんとした表情をする。
 「いいえ。ピアノはちゃいます」
 師はそういうものとは無縁だった。とジョンは笑う。
 「――特に、誰かに習ったことはないですよ」
 「習わないでも弾けるものなんですか?」
 それはそれでありえないのだが。このひとならば、独学でそのくらいしてしまいそうだからこわい。何せ、日本にきてからほんの2、3年で日本語をある意味日本人よりも正確に話すことができるようになったのだから。独学でピアノをマスターするくらい造作のないことだとしても不思議はない。
 「いいえ。特別に習ったことがないだけです」
 いくらなんでもそれは無理です、というこたえを聞いて真砂子は内心で安堵した。
 「鍵盤の配置と音階を教えてくれたのは母親で、楽譜の読み方とピアノの弾き方はボクのいた教会の修道士が教えてくれました」
 「教会も音楽を教えるんですね」
 「一応、理論だけは」
 古くは、世界を理解するための学問として音楽と神学は欠かせなかったのだと彼はいう。
 「昔のひとは、世界は神様のお創りになられたものがすべて調和しているものだと考えたんです。音楽はその調和を理解するためのものでした。古典音楽にはミサ曲がすごく多いですし、教会音楽として確立した分野が今の音楽に影響を与えている部分もあるんですよ――でも、普通の学校と違って歌や楽器のテストとかはないですね」
 「まぁ、羨ましい。あたくし、小さい頃から音楽の時間が嫌で仕方がありませんでしたわ」
 無理矢理クラス全員の前で歌わされたり、縦笛をふかされたり。そういうのがさらし者になったようで苦痛だった。
 というと、ジョンは「ボクもです」と微笑んだ。
 「ボクの場合はなんや趣味とゆうか……なんとなく、暇をみつけてやっとっただけなんですけど。教会にいたなかでピアノが弾けるおひとが、そのひととボクしかいなくて」
 大きなミサのときに、高齢の修道士は度々ジョンを指名してミサ曲を弾くように頼んだらしい。
 「――……たいして巧くもないのにたくさんのひとの前で弾くのは、あまり良い気分やないですね」
 そうこたえるまでに、いくつもの言葉を飲み込んだようだった。
 ジョンは苦笑し、右手の人差し指で鍵盤を一つだけ叩いた。
 高いドの音が寂しげに響く。
 「お嫌いだったんですか、ピアノ?」
 真砂子がそう訊くと、ジョンは少し思案するように押し黙り、それからゆっくりと言葉を選んで話しだした。
 「嫌い、ではありませんでした……多分。でも、『好き』かと訊かれたら、わかりません」
 あまりそういうことを考えたことはなかった。と、続ける。
 「別に、弾かなくてもいられましたから、そんなに『好き』ではなかったんだと思います。でも、“二度と弾きたくない”と思うほどには『嫌い』ではありませんでした」
 「なら、きっとブラウンさんはピアノがお好きだったんですわ」
 「そうでしょうか?」
 「えぇ。だって、ブラウンさんは本当にお嫌いでしたら、今ここで鍵盤を弾いたりなんかしないと思いますもの」
 とことんまで穏やかそうに見えるのがジョン=ブラウンという人間だが、意外なところで頑固なのもジョン=ブラウンだ。
 滅多なことでは「No」とは言わないが、いざとなったらきっとためらわないだろう。
 本当に嫌だったならば義務が終わった途端に関わるのを止めるだろうし。欠片でも愛着がなければ続けようとは思わないだろう。
 「――……そうでしょうか?」
 「えぇ」
 真砂子はにっこりと微笑う。
 単に、その許容範囲が普通の人の倍以上あるので、何でも許せるような人間に見えてしまうが、根本的なところで彼も普通の人間だ。
 「そうかもしれませんね……今まで深く考えずに過ごしすぎました」
 と、寂しそうに微笑うと、ジョンは「戻りましょうか」といって、鍵盤の蓋に手をかける。
 「まって」と、真砂子はそっとその手にふれた。
 「原さん?」
 「なにか……なんでもいいんです、ブラウンさんのお好きな曲を弾いてください」
 一度でいいから、彼が好きだと思ったものに触れてみたかった。
 「――遅くなると、渋谷さんが怒りますよ」
 「まぁ、ナルが怒っているのはいつものことです」
 真砂子はここぞとばかりにこれ以上ないというくらいにっこりと微笑う。
 「ここは教会ではありませんから。誰の目も気にしなくていいんですのよ」
 「……神様の目は、誤魔化せませんよ」
 「まぁ。少しくらい多目にみてくださるときだってありますわよ」
 その微笑みに、彼が何を思ったのかはわからないけれど。
 ジョンは小さく溜息をつくと、「……ミサ曲くらいしか、知りませんよ?」といって、鍵盤に手をおいた。
 彼の指が紡ぎだす繊細な音の波に耳を傾けながら、真砂子はゆっくりと瞳を閉じた。






あとがき(20080607)