2008年1月30日


 渋谷一也という人間は、無口、無愛想、無表情と三拍子揃った――ある意味三無主義な人間である。
 感情なんかないのではないかと思うこともあるが、それは大きな間違いだ。
 彼はその外見とは裏腹に、とても激しいものを内に秘めている。ただ、それを滅多に表に出さないだけで。
 その分、ふとした瞬間に彼がみせるものはとても魅力的だった。
 彼の瞳が、彼の纏う空気が好きだった。
 少しでも彼に近付きたくて、彼の世界に存在していたかった。
 いつからだろう、彼は変わった。
 無口、無愛想、無表情は相変わらずで、口を開けば毒舌しか飛び出さないのも変わらなかったが、いつのころからか、明らかに彼は変わった。
 陳腐な言葉でいえば、優しくなった。
 もとから優しくなかったわけでは決してない。わかりにくいだけで、彼の不器用な優しさは初めからずっとあった。
 ただ、それが少しずつだけれども表に出る機会が増えていった。
 もっとも、誰に話しても賛同は得られなかったが。
 ずっと、彼だけをみていたから、すぐにわかった。
 それはきっと、少なからずあのバイト少女が原因だろうと。
 彼の変化を悪いことだとは思わない。
 ただ、それを自分ができなかったことは残念で、少しだけ悔しかった。
 「ナル」と静かに声にだす。
 「ナル――……あたくし、ナルのことが好きでした」
 この何年か、ずっと想い続けた相手。
 「ほんとうに、ほんとうに大好きでしたのよ」
 「そうですか」
 予想通りの短い答え。
 「お話というのはそれだけですか?」
 「えぇ」
 「なら、これで用件は終了ですね。お済みになったなら、所長室から出てください。仕事があります」
 「こたえてくださいませんの?」
 ナルは苛立たし気に溜め息をつくと、ファイルを閉じた。
 「あなたはもう応えを知っている」
 「――……慰めてはくださいませんの?」
 「必要ないでしょう」
 「それもそうですわね」
 お邪魔しました。と、告げて、真砂子は所長室を後にした。
 正直、彼が自分を選ばなかったことが少しもショックではなかったといえば嘘になる。
 彼が選んだのは、どこまでも真っ直ぐで、透明な彼女。
 今なら、彼が彼女を選んだ理由もなんとなくわかる。
 彼女のありのまま自然な優しさはひとを惹き付け、離さない。
 自分にはないものをたくさん持っている彼女に、真砂子自身も段々と惹かれていった。
 だからこそ、思う。
 しあわせになってほしい。
 誰よりも。
 「あ、原さん」
 応接室に戻ると、見慣れた金髪の青年が紅茶を煎れていた。
 「『プリンタのインクが切れた』って、麻衣さんが買いに出てしもうて」
 いつのまにか、彼以外のひとを無意識に追っていることに気付いて。
 いつしか、傍にいることが当たり前になっていた。
 「お話はすみましたか?」
 「……はい」
 いつか、このひとに対しても同じように思う日がくるのだろうか。
 今を想い出に変えて、しあわせだけを願いながら、新しい道を歩み出す日が。
 「原さん?」
 それでも、大切にしたい。
 たとえ、いつか消えてしまうような一過性のものであっても。
 今、この瞬間のこの感情だけは、確かにほんとうのものだから。
 「お茶にしましょうか?」
 「……えぇ」
 いつか、その時が来ても泣かないでいられるよう。
 好きになったことを後悔だけはしたくなかった。





2008年1月27日


 「あ、真砂子。電話終わった?」
 一抱えもある段ボールに一杯のファイルを抱えて麻衣は資料室から顔を出した。
 「ごめんね。せっかく来てくれたのに、電話なんか頼んじゃってさぁ」
 机の上にファイルを積み上げ、一つずつ中身を確認していく。
 「でも、おかげですごい助かったよ。ありがとうね」
 もっとも、中身は横文字ばかりなのでまったく理解できていないのだけれど。
 「いや、本当に参ったよ。明日までに、これの中からプリント一枚とか絶対見つけられない……」
 麻衣は明日提出の英語のプリントを探していた。もっとも、英語のプリントを英字の書類と一緒の場所に広げるという大ポカをやったのは麻衣自身なのでなんともいえない。
 「あ、そうだ。で?どうだった?」
 「――……映画か舞台に誘われました……」
 「いやいや。そうじゃなくて」
 「……調査の件は了解したとのことです」
 「ふぅん」
 調査に行く際の注意事項の連絡を、麻衣は真砂子に頼んだ。いつもの諸注意だけの儀礼的なものだったし、手も離せなかったからだ。
 で、なんだっけ。
 と、麻衣は手を止め、思考を遡る。

 “あ、そうだ。で?どうだった?”
 “――……映画か舞台に誘われました……”
 “いやいや。そうじゃなくて”

 を。と麻衣は思った。

 “――……映画か舞台に誘われました……”
 “いやいや。そうじゃなくて”

 “――……映画か舞台に誘われました……”

 「っ、ちょっとまって……!?」
 いやいや。そうじゃなくて。とか、言っている場合ではないではないか。
 「ちょっと、真砂子!?どういうこと!?」
 「は?何が?」
 「映画か舞台に誘われたって、なんで!?」
 「なりゆきで……」
 一体どこをどうやったら、業務連絡したら映画か舞台に誘われるというのだ。
 「そこのところ詳しく!」
 麻衣は思わずファイルの中身を握り潰していた。

 *   *   *

 「ええと、何?つまり、要約すると、真砂子が電話したらたまたまジョンが真砂子の出てるテレビを見てて、そこで真砂子が『趣味は映画と舞台鑑賞です』っていったから、映画か舞台に誘われたってこと?」
 「えぇ、まぁ」
 「ずるい、ジョン!あたしも真砂子の出てるテレビ見たかったのに!!なんで教えてくれないの!?」
 「あたくしは見てほしくなんかありませんってば!」
 「いいもん。後で安原さんにダビング頼むから」
 と、麻衣は真砂子に聞こえないように呟いた。あの自他共に認める越後屋のことだから、真砂子や滝川の出る番組はすべてチェックしてあるに違いない。
 「まぁ、それはともかく――よかったね?」
 この際、きっかけには目を瞑るとして。大切な友人の恋路の発展だ。嬉しくないはずがない。
 けれども、真砂子の返事は意外なものだった。
 「…………そうかしら」
 「なんで?デートでしょ?――ほら、もっと嬉しそうな顔しなきゃ」
 原因はともかく。メンバー揃って出かけたりすることはたくさんあるが、真砂子がジョンと二人で出かけるということは今まで無かったはずだ。
 「麻衣――……本当に、デートになると思います?」
 「は?」
 デート、とは、何か。
 麻衣の頭の中でデートとは、
 1、年頃の男女が。
 2、二人きりで。
 3、出かけること。
 の三要素を満たせばひとまず要件は満たすものであった。もっとも、これがナル相手だとまた事情が変わってくるのだが。
 だから、当然、今回のケースもデートに該当すると考えていたのだ。
 「あのブラウンさんが、本当にそんなことをするとお思い?」
 「!?」
 牧師と違って、神父は妻帯が禁止されている。それどころか、恋愛すらすることができない。まして、こんな世の中だ。どこに誰の目と耳があるかわからない状況では少しでも疑われるような行為は慎むのが常識ある行動である。
 良識派の彼のことだ。よっぽどのことがない限り、まず間違いなく、女性と二人きりで出掛けるということはしないだろう。
 それなのに、出掛けようと彼のほうから持ちかけるということは――
 「で、でも。あたしだってジョンに買い物とか付き合ってもらってるし。教会行ったときとか買出しとか散歩とかその他諸々一緒にいったりしてるよ?」
 想像を口にするのが恐くて、麻衣はひとまずフォローをいれてみた。
 「買い物は概ね麻衣の方から誘ったのでありません?『事務所の備品の買出し手伝って』とか。教会へ行けばホストは一応ブラウンさんでしょう。まぁ、教会にホストもくそもないでしょうけど……ホストがゲストになにもかもやらせておくはずがありませんわ」
 「……」
 「それになにより、麻衣……あなたはナルが好き。この事実がある限り、その他の事情はどうだっていいんですのよ、きっと」
 ある意味一番の安全圏。
 彼女は彼を男としてみないし、
 彼も彼女を女としてみない。
 「えぇと、真砂子さん……それってつまり……」
 この事情を今回のケースにあてはめると――
 「えぇ。はっきりいって、女として認識されていないようですね、あたくし」
 あぁ、やっぱり。
 麻衣は心中で溜息をついた。
 文字通り頭を抱えて机に突っ伏す。
 なんだか自ら進んで墓穴を掘ってしまった気がするのは気のせいではないだろう。
 どうしよう。と、小さな呟きが聞こえた。
 一瞬、自分で考えていたことを口に出してしまったのかと思って口を押さえ、それから顔を上げて周りを見回す。
 「どうしよう……麻衣」
 無意識だろうか。組んだ両手が小さくふるえている。
 伏せた瞳からは表情はわからなかった。
 咽喉の奥から搾り出すような小さな声でいう。
 「うれしい」
 「――……うん」
 そうだね、と麻衣は真砂子に微笑んだ。
 いずれくる時のために。
 彼女が少しでも笑顔でいられるよう。
 すごした時を少しでもしあわせだったと思えるよう。
 そんなふうに願いながら。





2008年1月22日


 例によって例のごとく。SPRを喫茶店代わりに利用している滝川は、騒々しくやってくるなり家主の許可も得ずにいつもの定位置に腰を降ろした。
 麻衣も麻衣で滝川のそんな振る舞いには慣れたもので、やはりいつものようにアイスコーヒーを煎れて滝川に差し出し、自らの紅茶を持って滝川の向かいに腰を下ろした。
 「珍しいな。おまえさんが改まって相談なんて」
 「ん……」
 「とゆーより、事務所で相談事なんてしていいのか?」
 「ナルは新しい機材を買うのに出かけてる。自分の目でみて買いたいんだって」
 「うわ、さすがナル坊」
 「リンさんはいてもいなくても変わんないし」
 「ちょっとリンさーん、なんか言われてますよー」
 止めてよ!と麻衣は滝川を止めた。
 「リンさんはもし聞いても黙っててくれると思うからいいんであって、聞かれないにこしたことないし。せっかく資料室に行ってくれてるんだし」
 「あらやだ。そうなの?」
 「そうなの」
 まったくもう……。と呟いて、麻衣は溜め息をつく。
 「で?話って?」
 滝川のあまりの切り替えの早さに内心でもう一度溜め息をつきながら、麻衣は切り出した。
 「あのね、ぼーさん……」

*   *   *

 麻衣が事情をかいつまんで話すうちに、滝川の表情は次第に険しいものになっていった。眉間に皺を寄せ、口元を両手で覆い、何かを考えるような表情になる。けれど、意外なことに驚いたような顔つきにはならなかった。
 「――……というわけ」
 滝川は「そうか」とだけ短く返すとそのまま黙り込んだ。
 「驚かないんだね」
 「なんとなく……そんな気がしないでもなかった」
 「あたしはすごく驚いたよ?」
 「経験値が全然違うさ」
 その言葉に責められているようで、心が痛い。
 ――――友達、だったのに、と。
 「俺はな、麻衣……」
 麻衣の心の内を知ってか知らずか、滝川は続ける。
 「最初は少年の方じゃないかって思ってたし、今でもそうであってほしいと思ってる」
 「なに、それ……?」邪魔するの?と、麻衣は訊いた。
 「ダ阿保。そんなんじゃねぇよ」
 もしもの話だ、と滝川はいった。
 「少年の人間性についてはそれこそ問題ないし、こういっちゃなんだが、学歴だって申し分ない――おまけに少年は普通の日本人だ」
 滝川の言葉は親しみあるメンバーのことを語っているものとは到底思えず、麻衣は無意識に唇を噛み締めた。
 けれど、この言葉は紛れもない事実だ。
 「それから……これが一番重要なんだが、少年のほうはまんざらじゃないだろう」
 それは麻衣も少なからず感じていたことだったので、素直に頷いた。
 滝川はそこまで一息に言うと、一度口をつぐんだ。普段あまり見せることのない眼の色で麻衣の瞳をみつめる。
 「――――……正気か?」
 「たぶん」
 否、絶対。
 麻衣の言葉を訊くと、滝川は深い溜め息を漏らした。そのまま、ドサリと長身をソファに預ける。
 「――だとしたら、俺達にできることは何もない」
 「そんな……っ!?」
 「諦めろっていって素直に諦めるヤツか?」
 「それは……」
 もしそうなら、こんなに悩むことにはならなかった。
 「第一、諦めろなんていう権利は俺達にはないだろう」
 たぶん、そんなものは誰にもない。
 わかっていても、どうしようもない。
 「――……自分を、好きになってくれる人がわかればいいのに」
 そうすれば、そのひとだけを愛せるのに。
 「馬鹿言え。好きでもない相手から好かれたらどうするんだ」
 「それはそうだけど……」
 「そう都合良くなんかできてねーよ、世の中なんて」
 赤い糸なんて信じているわけでは無いけれど
 何億もの人がいるこの世界で
 たくさん迷って、傷付いて
 それでもきっと運命の相手を探してる
 たぶん、誰も、が。
 「……まぁ、なるようになるなだろう」
 というよりも、なるようにしかならないのだ。
 「うん……そうだね」
 麻衣は瞳を閉じ、瞼の裏に友人たちを思い描いた。
 先のことは何もわからないけれど。
 どう転ぶにしろ、変わらないよう。
 すべてが変わっていくなかで、一緒にいた時間だけはなくなってしまわないよう。





2008年1月20日


 「――……ブラウンさん?」
真砂子は足元を見下ろし、声をかけた。
 吐く息が白い。
 調査で訪れたこの地方は、12月初旬だというのに雪ですっぽりと覆われていた。
 「……交代の時間ですか?」
 「いいえ。ベースにもどったらお姿がなかったものですから」
 「……さいですか」
 お手数おかけしてすんません。と、いつものように彼は微笑った。
 けれども、その笑顔はこころなしかこわばったものにみえる。
 「……そのままでは風邪をひいてしまいますわよ?」
 呆れたように真砂子は言った。
 彼は雪の上に仰向けに倒れこんで、無造作にその肢体を投げ出していた。
 「この状態で風邪でもひこうものなら怒ったナルにそれこそ呪い殺されましてよ」
 「渋谷さんならやりかねませんね」
 もっとも、白銀の世界に埋もれる彼は、一つの世界そのもので。
 笑いながら立ち上がり、身体についた雪をはらう姿を見て少しだけ残念に思った。
 「戻りましょうか」
 一瞬、この何分かが夢だったのではないかとすら錯覚する。
 そんなことはないはずなのに、どこかで警鐘がなっている。
 「原さん?」
 何も変わったことはないはずなのに、心の奥の方から漠然とした不安がこみあげてくる。それほどまでに、今の彼の存在は稀薄だ。
 「……少し、軽率なんじゃありません?」
 え?と小さく聞こえた問い返しを無視して真砂子はまくし立てた。
 「ブラウンさんの実力はあたくしもよく存じていますし、ブラウンさんのお気持ちもお察しいたします……でも、だからこそ、この状況でお一人になることがどれだけ危険かはおわかりでしょう?」
 死霊がもっとも好むものは、いわゆる徳の高い魂と、聖体――そして、不安定な心。
 「美山邸のことだってありますのに」
 彼の実力を侮るわけでは決してない。
 けれど、条件が揃いすぎている。
 普段の彼ならともかく、今の彼を一人にすることほど真砂子にとって不安なことはなかった。
 「いきなり、いなくなるなんて……こっちがどれだけ」
 あぁ、そうか。
 あの違和感はこれだったのか。
 「――すんません」
 「謝ってほしいわけじゃありません」
 「……さいですね、ほんまにすんません」
 「ですから……!」
 そういって、微笑われたら何もいえないではないか。
 やわらかくて、やさしげで……いつもと何も変わらないはずなのに、見ているこちらが痛くなるくらいの笑顔。
 きっと、本当ならば笑顔を浮かべていられるような余裕はどこにもないのだろう。
 それなのにそんな表情をさせてしまっている自分が腹立たしい。
 真砂子は深く呼吸をすると「――何故?」と訊いた。
 「何故、こんなところに?」
 詮索するような不躾な訊き方。おそらく、麻衣や滝川――否、他のメンバーならば誰もがこんなときにもっと上手く行動できるに違いない。
 けれども、真砂子はこんなときにどうすればいいかすらもわからなかった。
 「――……雪を、みてたんです」
 真砂子の問に彼がなにを思ったかはわからない。
 彼のこたえは簡潔で、危惧していたような硬い響はなかったけれど。
 自らの感情を押し殺すことが上手な彼のことだから、もしかしたらそのあたりのことも隠してしまっているのかもしれない。
 「真っ白で、冷たくて、綺麗で――」
 そう語る彼の瞳は寂し気で、どこか遠くをみているようだった。
 「そんななかで自分をみたら、そこだけ何か染みがあるみたいで……」
 余計なものは何一つなく
 ただ、ただ白い世界
 静謐で、神聖な――何者にも犯すことのできない世界
 「そう思ったら、自分のこと視界にいれたくなくなってしもうたんです」
 それで雪の上に寝転んでいたという。
 お騒がせして、すんません。と彼は再び頭を下げた。
 「皆さん、きっと待ってますね。早う戻らないと…………原さん?」
 唐突に真砂子は雪の上に仰向けに倒れ込んだ。
 「っ原さん……!?」
 襟口や袂から雪が入り込み、小さな針で刺すような感触が皮膚に伝わる。
 「原さんっ……原さん!!」
 慌てる彼を遮って、真砂子は続ける。
 「――確かに、すごく綺麗な景色ですわね」
 鈍色に輝く空と一面の銀世界。雪化粧した樹木がそびえ、上空からは今にもまた白い粉雪が降りだしそうだ。
 けれど――何かが足りない。
 「そんな表情なさらないで」
 傍らに膝をついて心配そうにのぞきこんでくる彼の顔にそっと手を伸ばす。これだけ寒い中に長時間いたのだから、きっと冷えきっていたのだろうけど。凍える指先で触れた彼の頬はそれでも十分にあたたかかった。
 「来るときにリンさんに此処を知らせてあります」
 「……」
 「少しくらい、遅くなってもかまわないでしょう」
 そのまま彼の金の頭を抱き寄せる。
 「怒られるときは一緒に怒られてさしあげます」
 「――……はい」
 苦笑する彼をみて、真砂子は「よかった」と口には出さずに呟いた。
 彼がこのままどこか手の届かないところにいってしまうのではないか
 このまま、いなくなってしまうのではないか
 そんな予感がして、不安でたまらなかった。
 それは決して消え去ったわけではないけれど。
 「…………あたくしもまだまだですわね」
 柔らかな金色の髪に指を絡めながら、真砂子は自嘲する。
 失うことを恐れるばかりで、今此処に存在していることを忘れるなんて。
 「なにが?」
 「いいえ。なんでも」
 大切なのは、今、触れられるあたたかな存在。
 彼が今此処にいるという事実。
 今この瞬間を忘れないように、真砂子はもう一度腕の中の人を抱きしめた。





2008年1月12日


 昼下がりのカフェ。
 注文したアイスチョコモカを一口飲むと、麻衣はちらりと向かいに座る友人をみた。
 どうしました?と、マグから顔を上げ、訊いてくる真砂子に、麻衣は気付かれないようにそっと溜め息をついた。
 「あのさ、真砂子」
 話があるからと、事務所以外に呼び出したのは麻衣だ。
 多忙を極める友人はそんな申し出に嫌な顔一つせず、ついでだからと久しぶりに映画をみて、ウィンドウショッピングをしてと、女二人のささやかなデートにも付き合ってくれた。それが本当に楽しかったから、ついついそのままおしまいにしそうになったが、そもそもの本題はそこではなく。
 「――……真砂子は、本気なの?」
 至極短く。
 けれども、これ以上にないくらい簡潔に、麻衣は訊いた。
 真砂子は恐らくそれだけで意味を察したのだろう、少し驚いたよう に目を見張り、マグを置くと「えぇ」と言って、柔らかく微笑んだ。
 「でも」
 「あのひとのことは麻衣のほうがよくご存知でしょう?」
 「あたしのほうがよく知ってるかはわかんないけど、あれだけ一緒にいるんだもん、どんなひとかくらいはわかるよ」
 少なくとも信頼できるひとだということくらいは。
 「なら、問題ないでしょう?」
 真砂子はさも当然といわんばかりだ。
 「わかってる――……わかってるからいってるんじゃない」
 出会って二年半。
 まんざら知らない間柄でもない。
 こういうことについては、ある意味、とくに、よく知っている。
 「……問題のある方ではありませんわ」
 「だから、そういんじゃないって」
 ひととしてどうこうということは決してなく。
 「あたしだって、そのくらいはわかるよ。すごくいいひとだって。……もしかしたら、ううん、もしかしなくても、ウチで一番やさしいひとだよ。あたしも大好きだもん」
 「……」
 「でもね、あたしは真砂子も大好き」
 麻衣は一息でそこまでいうと、一拍おいた。
 再び何か言おうとして、躊躇うように口をつぐむ。
 胸の辺りにつかえた何かを呑み込むようにもう一度呼吸をすると、視線をあげ、はっきりと告げる。
 「見込みのない恋なんて応援できないよ」
 もしかしたら、今度こそ本当に彼女は泣いてしまうんじゃないだろうか。
 傷付いて、壊れて、立ち直れなくなってしまうんじゃないかと。
 それだけが気掛かりで。
 「――……『恋は一人でもできる』…………そういったのはどこのどなた?」
 「!?」
 その言葉に麻衣は視線を反らし、うつ向いた。
 真砂子も言ってしまってから、しまったとでもいうように、反射的に口をつぐむ。気まずそうにマグを手にとり、口をつけた。
 「……失言でしたわね。ごめんなさい」
 「ううん――……だからこそだよ」
 麻衣は静かに首を横に振った。
 「たしかにね、ただ恋をするだけなら一人でもできたよ。でも、それはただの恋」
 自己中心的で、身勝手な
 最大限のエゴ
 「愛じゃない」
 想うだけでいいなんて、都合のいい言い訳
 忘れられないふりをして、忘れたくないだけ
 「真砂子はそれでいいの?」
 「かまいません」
 「でも」
 「麻衣――……これはあたくしが決めたことですのよ」
 それに。と真砂子は続けた。
 「たぶん、本当に辛い思いをするのはあたくしじゃありませんから」
 それは、推測というよりも確信に近い事実。
 無理をすれば、壊れてしまうのは彼女だけではない。
 気持以外の自分ではどうしようもない部分に苦しむのは、むしろ彼の方だろう。
 だから、想いを告げる気もないと、真砂子は結んだ。
 「――……馬鹿だね」
 「それはお互いさまでしょう?」
 真砂子の言葉に麻衣は笑った。
 「……本当に、馬鹿だね、あたしたち」
 涙まじりにしか笑えなかったのは、この際仕方のないことだとしよう。







全部まとめてあとがき。


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