2008年2月20日


 オーストラリアの夏は暑い。
 地球上、どこに行っても夏は暑いものだけれど、故郷の暑さには独特のものがある。もっとも故郷を独特だと思うのは誰しも同じなのかもしれないが。
 日本が真冬な時期に帰ってきてしまったせいだろうか、今年は特にそうかんじる。
 日毎日毎に秋へと向かっているはずなのに、昼日中の太陽は容赦がない。夕方になり、涼しい風が吹くこの時間になってようやくほんの少しだけ秋らしい空気がでてくる。
 ジョンは街の大通りを歩いていた。
 特に目的があったわけではない。ただ、外に出たかった。それだけだ。
 オーストラリアには日本人が多い。
 否、東洋人が欧州に比べて少なくないといったほうが正解か。
 行き交う人々の中にちらほらと黒髪か混じる。
 現に、赤信号で足を止めた交差点にも何人か。
 そして、その中に無意識に彼女の影を追っている自分に気付いた。
 今だけではない。
 街で東洋人を見かけたとき。
 教会に東洋人の観光客が来たとき。
 ふとした瞬間に、その中で彼女の面影を探している。
 帰郷してしばらく。
 離れれば忘れられると思っていた。
 会わなければ、会えなければ、会いたいと思うこともないだろうと。
 なのに、こんなにも今、会いたいと願っている。
 ――――重症だ。
 これでは何のために帰郷したのかわからない。
 「…………」
 溜め息とともになんとはなしに空を見上げる。
 時差はほとんどない。
 冬の中にあるあの国は今時分もう夕闇に包まれているだろう。
 そこまで思考して、内心で苦笑する。
 自分なんかが彼女のことを案じる資格は無いのだと。
 傍にいたところで、どうなるわけでもない。
 けれども、それは逆をいえば離れていても変わらないということだ。
 それでも、これ以上は傍にいられない。
 否、いたくない。
 彼女を受け入れることはできないけれど、拒むこともできない。
 堂々巡りの思考に終止符を打つかのように、信号が赤から青に変わった。
 どうすることもできないなら、せめて。
 彼女が今も笑顔でいてくれるように願いながら、人の波にのって再び歩きだした。





2008年2月14日

 バレンタインデーにチョコを渡すのかと聞かれたので、『父親とテレビ局関係者、後はいつものメンバーに』と答えたら、谷山麻衣に怒られた。
 『義理チョコのことなんかきいてない!あたしは、本命を渡すのかってきいてるの!』
 そんなもの、渡せるわけがない。
 けれど、そう言うことも、認めることもしたくなくて。
 御自分で言っていて恥ずかしくなりません?
 と茶化して誤魔化した。

 「……」
 ――……朝。
 障子の隙間から差し込む日の光で目が醒めた。
 枕元の時計をみれば、6:30を差している。
 今日は10:00から撮影が入っている。
 起床には若干早いが、寝直す余裕もなさそうだ。
 何だかんだで昨夜はあまり眠れていない。
 床には早々に就いたものの全く寝就けなかった。
 寝乱れた寝間着の浴衣の襟をそっとなおす。
 結局、散々考えて出た結論は「渡したところでどうにもならない」ということだけ。
 渡せば、彼は受け取るだろうか。困ったように苦笑して。
 それとも、軽蔑するだろうか。
 どちらにしろ、今の関係を壊すことになるのには変わりない。
 もとより、何を望むわけでもない。
 想いを告げることも、傍にいたいと願うこともないと、自らそう決めた。
 ならば、せめて今の関係を壊すようなことを自らする必要はない。
 もっとも、それすらも後で彼が知れば裏切りに他ならないのだろうけれど。
 溜め息をつき、部屋の隅に視線をやる。
 そこには、皆に配る分が入った大きめの紙袋と、その脇に控え目に極々小さな包みが一つ。
 真砂子は溜め息をつくと立ち上がり、小さな包みを襖の奥へと仕舞いこんだ。






2008年2月10日


 理由も何も言わずに、ただ「今がつらい」とだけ話すと、何故だか彼のほうが泣き出しそうになった。
 「――今がすべてではありませんよ」
 けれど、彼はすぐに神父の表情になると、やわらかく微笑む。
 「原さんが今までどんなにがんばってきたか、神様はちゃんとみてます。原さんがとてもやさしいおひとで、だから今がすごくつらいときだってゆうのも、神様はわかってます。だから――今がすべてでは、ないです」
 「……本当にそうお思いですか?」
 「ハイ。……神様は、乗り越えられるおひとにしか試練をお与えにはなりません」
 何も知らないくせに。と思わなかったといったら嘘になる。
 どれだけ自分が汚いものを抱えているか、彼は知らない。
 困らせることがわかりきっていたけれど、言わずにはいられなかった。
 「成功すれば神の奇跡、失敗すれば神の試練?随分都合のいい神様ですこと」
 真砂子は嘲う。
 「そんな神様信用できません」
 気まぐれにかまって、気まぐれに見物だなんて。
 そんなの勝手すぎる。
 「……でも、ブラウンさんなら信用できます」
 真砂子がそう告げると、彼は一瞬だけ悲しげに瞳を伏せ、寂しそうに笑った。





2008年2月7日


 平日昼間。
 SPRの事務所で安原は欠伸をかみころしていた。
 社会人や中高生にとっては忙しい時間帯だが、大学生にとっては死ぬほど暇な時間である。
 それ以前に大学生というものは概ね暇な生き物だ。もっとも、一部理系や研究中毒なやからは除くが。
 そんなわけで本日何度目かの欠伸とも溜め息ともつかないものをし、書類の分類にとりかかる。
 そうすると、唐突にカランと鳴子がなった。
 こんにちは。と、扉を開けてやってきたのは、お馴染みの霊媒少女だ。
 「こんにちは、原さん。今日はどうしました?」
 「こんにちは、安原さん。麻衣はいますか?」
 「谷山さんは今日はおやすみですよ。補習にひっかかったそうです」
 「まぁ……」
 という真砂子は微妙な表情をしている。
 出席日数確保のために補習が多いときくから、あながち他人事ではないのだろう。
 「麻衣が食べてみたいといっていたお店のケーキを持ってきたのですけれど……冷蔵庫をお借りしてもよろしいかしら?」
 「どうぞどうぞ」
 包みを受け取ると意外にずっしりと重い。
 「人数分ありますので、安原さんもお時間のあるときにでも」
 「あ、じゃあせっかくなんで今いただきます――原さんもいかがですか?」
 このパターンでは大体『撮影が控えていますから』と丁重にお断りされるのだが、今日の真砂子は珍しく、「では、あたくしも」と応えた。
 どうやら真剣にヒマらしい。

*   *   *

 所長と上司に紅茶とケーキを持っていき、自分達は自分達でお茶の時間にする。
 というのはいつものことなのだが、ここに谷山麻衣という少女がいないことだけがいつもとちがう。
 半分相方のような少女がいないだけで、真砂子の印象は随分と変わる。もとから楚々とした雰囲気を持ってはいるけれど、そこに少女から大人の女性への過渡期独特の空気が加わり、清浄な流れの中に一筋の甘露があるようだった。
 他愛もない世間話も一段落ついたところで安原は「ところで」と切り出した。
 「原さんはブラウンさんのことが好きなんですか?」
 真砂子は呆れたように溜め息をつく。
 「いくら安原さんとはいえ、不穏当な発言は慎んだほうがよろしいかと思いますわ――……それはブラウンさんに失礼です」
 「原さんには失礼じゃないんですか?」
 瞬間、その場の空気が凍りつく。
 「あたくしのことはかまいません。何をいわれようと馴れていますもの。けれど、あの方は神父ですのよ?そのようなネタにされるだけでもご不快なことくらい、考えなくてもおわかりでしょう?」
 そうですね。と安原は曖昧に頷いた。
 「今のは昼メロ的に意訳すると、『私のことは何を言ってもかまわないから、あのひとのことは悪く言わないで!?』ってところでしょーか?」
 「っ……安原さん!」
 「こんなに余裕のない原さんをみるのは初めてだなぁ」
 「違いますってば……!」
 尚も否定しようとする真砂子に、安原は見るからに優しそうな笑みをうかべ「隠さなくていいんですよ」と告げ、極めつけに「僕を誰だと思っているんですか?」という。
 誰であろう、天下の越後屋安原様である。
 真砂子はそれを聞いた途端に、さっと顔の色をなくした。何かを言おうとして開いた口を一度閉じ、観念したかのように再び口を開く。
 「いつからご存知でしたの?」
 「いつでしょうねぇ」
 「……誰にも言っていませんのに」
 「なんとなくとゆーやつですよ」
 「あの、もしかして、皆……」
 「大丈夫だと思いますよ。その辺のことはさすがですね」
 実際、彼女は巧く自分の感情を隠している。それも、全くの無関心やあからさまな嫌悪感で覆うのではなく、純然たる好意にすり替えて。
 気付いたのは安原くらいなものだろう。
 注意すればあの所長サマも気付いたのかも知れないが、関心が全くないようなので勘定にはいれない。
 「……よかった」
 真砂子は心底ほっとしたように微笑む。
 「……相変わらず、男見る目がないですね」
 「どういうことです?」
 真砂子は形の良い眉の根をよせる。
 「だって、最初があの所長サマで次が神父じゃないですか」
 そう――自らかなわない恋を選んでるようにしかおもえない。
 「そりゃあ、ブラウンさんは人間としてはかなりの上物だとは思いますけど」
 ひととしては敵わないだろう。
 でも、同じ土俵にあがることはないと、勝手に思い込んでいた。
 「牧師ならともかく、神父というのは……賭けにでることすら無謀ですよ」
 いいんです。と真砂子はいった。
 「賭けに出る気もありませんから」
 想いを告げることも、傍にいることも叶わなくてもかまわないという。
 「――……なら、僕にしませんか?」
 一瞬、何がおきたのかのかわからないというように真砂子は目を見張り、二度、三度と瞬きをした。
 「また、ご冗……」
 真砂子は言いかけた言葉を飲み込むと、苦笑した。
 「本当……男性を見る目がないようですね、あたくし」
 深く呼吸をすると、真砂子は小さな声で、はっきりと「ごめんなさい」といった。
 「いいえ。それでこそ原さんです」
 次のチャンスは、この少女の恋が終わって慰めるときだなぁ。
 と、頭の隅で思う。
 そんな日が来てほしいような――できれば、来ないよう願いながら.






2008年2月2日


 「坊主じゃなかったら何になってたかって?」
 「そう」
 「そら、ベース一本だろうねぇ」
 と、滝川はいった。
 「じゃあ、ベースやってなかったら?」
 「坊主だろうねぇ」
 「……」

 「巫女じゃなかったら何になってたかって?」
 「うん」
 「玉の輿」
 綾子は即答した。
 「あぁ、場合によっちゃあ逆玉だわね。どっちにしろ、イイ男みつけてとっとと結婚してるわよ」
 「そもそも綾子って本職は何?」
 「ないしょ」

 「SPRに勤めなかったらどうしているか、ですか?」
 「そうです」
 「――本国で調査員をしていると思いますよ」
 「香港には?」
 「行かないでしょうね」
 それ以上は訊いてはいけない気がして、「そうですか」とだけ返した。

 はぁ。と、麻衣は溜め息をついた。
 明日までに提出の進路希望調査の紙が埋まらない。
 将来――……あまり、考えないようにしている。
 進学、就職――どちらもピンと来なかった。
 「真砂子はさぁ、就職するの?」
 聞けば、彼女はなんともいえない表情で応える。
 「麻衣――……余程の資産家でない限り、働かなければご飯は食べていけませんのよ?」
 「そうじゃなくて……進路だよ、し・ん・ろ!」
 「進路?」
 「そう――大学とかいくの?それとも、芸能界に本格デビュー?それとも霊能者一筋?」
 派手な舞台を好む友人ではない。けれども、彼女が普通にOLをするさまは、それ以上に想像できなかった。
 真砂子は、納得したように頷くと、一言一言を確認するように言葉をだした。
 「……進学、すると思いますわ。たぶん……4年生の大学に」
 「志望校とか決めた?」
 「それはまだ……まだ少し時間がありますから」
 「そっか」
 いわゆる芸能人が普通に受験をするのは難しいだろうというのは想像にかたくない。成績や出席日数の関係で通常の受験には無理があるから、自己推薦やAO入試に流れるケースが多いという。
 確かに、真砂子の通う学校なら、学校柄、推薦枠も多く持っていそうだ。けれども、そのような手段をあまり好まない彼女としては複雑なのだろう。
 「麻衣は?どうしますの?」
 「今迷ってる」
 進学するにはお金がかかる。奨学金やら何やらの手段は皆無ではなかったが、そこまでして勉強をしたいかといえばそうでもない。
 社会に出ればお金は稼げるだろうけど、就きたい職業もない。
 「……安原さんはセンター組だったんですか?」
 「いや。僕は推薦だよ。校長推薦ってやつ」
 「おぉ。さすが生徒会長」
 「志望校はどうやってお決めになったんです?」
 安原は何かを思い出そうとするように上を仰いだ。
 「深く考えませんでしたね。行きたい学部と、自分の力で行ける学校と、って考えて。それだけです。まぁ、志望動機を書く欄にはもっとそれっぽいことを書いてましたが」
 あははー。と安原は笑う。
 これで我が国最高学府の最難関校に現役で入ってしまったのだから、あなどれない。
 カランと鳴子の音とともにドアが開いた。
 「こんばんは、麻衣さん」
 「いらっしゃい、ジョン」
 やってきたのは金髪の神父だ。以前は用がなければ訪れることはなかったのだが、最近は彼もなんとはなしに事務所に立ち寄る機会が増えてきた。滝川達の影響だろうか。
 追加分の紅茶を用意しながら、麻衣は訊いた。
 「ジョンはさ、どうして神父になったの?」
 「――……どうしたんですか?突然」
 今ひとつ事情の呑み込めていないジョンに安原が手短にわけを話す。
 「もしかして、修道院とかに入ると、神父って強制的になるの?」
 「いいえ。そんなことはないですよ。修道士のままのおひともいますし、還俗するおひともいます」
 「ふぅん」
 「ボクの場合は、伝道に出るときに司祭の位階を貰いました」
 「司祭?神父じゃなくて?」
 日本語って難しいですね、とジョンは苦笑する。
 「司祭も、神父です。ついでにゆうと、司祭ゆうてもボクは正確には助祭になります――まぁ、その辺のことはどうでもいいですね」
 麻衣が紅茶を差し出すと、ジョンは「おおきに」といって紅茶に口をつける。
 「なんで神父になったかは、正直ボクにもよくわかりません。ただ、神父になったことを後悔してないことだけは確かです」
 「………なりたかったんじゃ、ないの?」
 「憧れてはいました。ずっと。でも、あの歳では普通神父にはなれませんし、上もそんな選択をしろとはいわないです」
 ちょっとした特例だったのだと、ジョンは苦笑する。
 「きっかけなんて、きっと後からわかるもんなんですね。あの時は目の前のことだけでただ精一杯で、『なんで』とか『どうして』とか考えてる余裕なんてありませんでした」
 「後悔しないかは……考えませんでしたの?」
 「考えませんでしたね――ふしぎと」
 「相談は?」
 「しませんでしたね」
 誰のせいにもしたくなかった、という。
 「だから、そう……気付いたらなってた、それだけです」
 麻衣は小さく頷くと、手元のちゃちなプリントに視線を落とした。
 「後悔しないことなんてありませんよ、きっと。でも、同じ後悔ならやりたくないことをやってするよりも、やりたいことをやってしたほうがいいんやないかって――ボクはそう思います」
 「……そう、だね」
 どうせ同じ結果なら、過程だけでも楽しまなくては意味がない。
 それは誰のためでもなく。
 ただ毎日生きているだけの自分へのごほうび。
 「もう少し、考えてみるね」
 麻衣がそう言い終わらないうちに、所長室の扉が開き、ナルが出てきた。
 相変わらず不機嫌な所長サマは、相変わらず不機嫌な声で、「お茶」とだけ告げる。
 より機嫌が悪くなることを承知で麻衣は皆に訊いたのと同じようなことを訊いてみた。
 「ナルはPKがなかったらどうしてた?」
 ナルはその問に嘆息し、「愚問だな」というと、意地の悪い笑みをみせる。
 「例えPKの一つや二つなかったところで僕は僕だ。僕には恵まれた頭脳と才能そしてこの容姿がある。そんなものあろうがなかろうが、関係ない」
 その代わり性格には恵まれなかったけどな!!
 と麻衣の怒号がとんだことはいうまでもない。







全部まとめてあとがき



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