Good Night - Thank you


 マガルディは流行りの歌を口ずさみながら夜道を歩いていた。
 急ぐわけでもなく、かといってのんびりというわけでもない。
 家に帰ったところで何がどう変わるわけでもなし。
 劇的な変化など期待はしていない。
 例の彼女が何もない部屋でいつものように彼の帰りをまっている。
 それだけだ。
 多くを望むわけではなく、かといって何も望まないというわけでもない。
 そこそこに売れて、食べていくのに困らないだけの金と、ほんの少し羽目をはずせるくらいの余裕。それがあればいいと。


 張りのあるテノール。
 この声もいつかは衰える。
 見た目で食える年は少しばかりピークをすぎた。
 声帯の老化が一番遅いとはいえどもいつかは来る。避けては通れない問題だ。


 一線を退いた後のことなど何も思い浮かばない。
 ただ、漠然とそのときにも彼女はそばに居てくれるだろうと、そんな気がした。
 意志の強い黒い瞳。
 黒曜石を思わせるそれは、陽にあたるとほんの少しだけ深い青が混じる。
 出会ったときは15の少女だった彼女も、いつの間にか女になった。
 結婚なんかを視野に入れているわけではないが、それも悪くはないか、と思えてくる。


 歌を口ずさむのを止め、上着の内ポケットから玄関の鍵を取り出す。
 室内へと移動する必要もなく、扉を開けてすぐのところに彼女は居た。
 「まぁ」
 ただし、それは決してマガルディを出迎えに……などと殊勝な行為からではない。
 彼女は玄関口で男の首に手を伸ばしていた。
 もちろん、彼の知らない男だ。
 「ええと……エヴァ?」
 「もう、気がきかないわね。こういうときは、“俺の女に何をする!”くらい言うもんよ」
 「はぁ……」
 今一つ状況ののみこめないマガルディにできたことは、間抜けな返事を返すことだけだ。
 「エビータ、このひとは?」
 「あたしの大好きだったひと」
 大好きだった……?
 現在形じゃないのか?
 「まってくれ!」
 と、口に出したのはマガルディではなく。目の前の見知らぬ男だ。
 「エビータ、君が好きなのは僕だ。そのはずだね?」
 マガルディも負けじと、「冗談じゃない!」と続く。
 「エヴァ、君が田舎から出てきてから今まで一緒にいたのは私だね?」
 それを皮切りにマガルディと彼の間で喧々囂々の争いがはじまる。
 論点は勿論、「どっちがいかにエヴァのことを愛しているか」もしくは、「どっちがいかにエヴァに愛されているか」、だ。ある意味低レベルなことこのうえない。
 「もうっ!」
 と、彼女はしばらくすると二人の間に割って入った。
 「止めてちょうだい。こんなことで争いあうなんて無意味よ」
 『エヴァ/エビータ!?』
 それは、彼女の名前を呼ぶという至極端的なものだったけれど。
 非難めいた悲鳴にも近いそれをあえて意訳するならば、
 おまえのことで争っているというのに無意味とはなんだ!無意味とは!!
 というところだろう。
 「確かに、あたしはあなが好きよ」
 と、彼女は彼に言う。
 「マガルディ、あなたもね」
 彼女は悲哀の色を浮かべた瞳を静かに伏せる。
 「――でも、今の私の特別はちがうの」
 『は?』
 彼らの間抜けな声と、呼び鈴が鳴り騒々しく扉が開くのはほぼ同時だった。
 「やぁ、エビータ。鍵が開いていたので勝手に失礼するよ」
 「まぁ、来てくれたのね!嬉しいわ」
 入って来たのは、彼女より少し年上の、スーツを着込んだ実業家風の男だ。
 その男はちらりとマガルディ達を一瞥すると、これ見よがしに彼女を抱き寄せる。
 「こんばんは。何か御用ですか?」
 「――というわけなの。ごめんなさいね」
 彼女は心底申し訳ないという口調で、極上の笑顔をみせた。


 後のことはよく覚えていない。
 第三の男を交えて三人で争った気もするし、そうでない気もする。
 気が付けば、ぽいっと道路に放り出されていた。
 「おやすみなさい――ありがとう」
 呆然とするマガルディ達の目の前で、バタンと扉が閉まった。





end