梅雨寒

 ディミータは機嫌が悪かった。
 どのくらい機嫌が悪いかというと、今彼女の視界に入ったら、その視線だけで殺されそうになるくらいに機嫌が悪かった――他人からしてみれば、いい迷惑である。
 これもそれも、すべてこの鬱陶しい天気の所為だ。
 今日こそ雨が降っているが、とっくに梅雨入りしたはずなのに雨は今のところ例年よりも少なめで、そのくせ湿度と温度は例年よりも多いのだから。不快指数はとっくに臨界点を超えていた。
 そうでなかったら、あのエセ紳士のせいだ。
 いや、むしろ天気よりもエセ紳士の所為といったほうが正しいのかもしれない。
 ――誰が、あんなの誘うかっての…………!!
 そりゃぁ、確かに、声はかけたけれども。でも、それは、あくまで、エセ紳士のためではなく。
 なんとなく料理の練習がしたくて。
 自分で自分のために作っても面白くなくて。
 作ってあげたい相手はいるけれど、それはできなくて。
 そんなときに、たまたま、あのエセ紳士と会って。
 他人の話を最後まで聞かずにOKしたのはむこうだ。
 お世辞にも巧くできたとはいえない料理を、美味しそうに食べている姿を見たら、なんとなく腹が立ってきて。極めつけは、『ごちそうさま。美味しかったよ、ありがとう』の一言だ。
 だって、彼が作ったほうが何倍も美味しいに決まっている。
 それは、いつも彼の作った料理を食べさせられている(何故って、ことごとく『プレゼントだよ』とか『差し入れだよ』といって彼が持ってくるからである)ディミータが一番よくわかっている。
 だから、悔しくて。つい。
 『別に、あんたのために作ったんじゃない』
 そういったときの彼の顔といったら……!
 確かに、いつもガキどものお守りで馬鹿面をさらしてばかりいるけれど、それでも彼はどこかで余裕のある飄々とした笑顔を崩すことはなかった。
 それが、彼女のたった一言で、台無しだ。
 『――わかってるよ』
 トン、と小さな音をたてて箸をおく。
 『でも、俺は呼んでくれてうれしかったけどね』
 寂しそうに微笑って、彼は席を立った。
 それが、無理やり作った歪んだ笑顔だということくらい、ちゃんとわかっている。
 ひどいことを言ったということも。
 でも――あんな表情をされる理由がわからない。
 「ちょっと、何よ、この部屋……」
 ボンバルリーナが二の腕をさすりながら入ってくる。
 「おはよう、リーナ……もう昼よ」
 「おはよう、マイディア。今日も一段と不機嫌ね」
 昼過ぎに起きてきて何たる言い草だろうか。とは思っても口に出さない。
 「ねぇ、この部屋寒くない?」
 ボンバルリーナはころんとソファの上で丸くなった。
 「窓閉めてよ」
 「え?」
 「ま・ど!」
 いわれ、ディミータは窓を閉める。
 彼女のいた出窓は吹き込んだ雨で濡れていた。
 「この雨の日に窓開けてぼけーっとしないでよ」
 「……ごめん」
 くしゅん。と小さくくしゃみをして、ボンバルリーナはひざ掛けを頭までかぶる。
 ディミータはボンバルリーナから視線を窓の外へと移し、はぁと溜息をついた。
 空梅雨の中で、今日は珍しく雨が降っている。
 窓ガラスは雨で滲んで外がよく見えない。泣き出した空が“みないで”とでもいっているかのようだ。たくさん溜め込んだ感情を排出するかのように。
 ディミータは再び溜息をつき、立ち上がった。
 「どこへいくの?」
 「ん、別に」
 どこへということもなく。
 ただ、この景色を眺めていたくなかった。
 「カーバのところ?」
 「馬鹿いわないで」
 なんで、あんなヤツのところになんか行かなくてはならないのだろうか。
 そう思う反面、やはりどこかでその存在はひっかかっていたようで、彼の名前を出された瞬間は胃がひやりとした。
 ボンバルリーナは興味がなさそうに「ふぅん」と欠伸交じりにこたえた。「どうでもいいけど」といい、爪の手入れをはじめる。
 「大事なことは、言葉にしないと伝わらないわよ――仔猫ちゃん?」
 そんなこと、百も承知だ。
 ディミータは気付かれないように小さく舌打ちをする。
 「散歩」と、愛想無く呟いて、寝床を後にした。

 *  *  *

 サァサァと音を立てて銀の雨が降る。
 普段は日の光を取り入れて、石の床へと色とりどりの光を落とすステンドグラスも、今日はただ窓に嵌まっているだけのただのガラスだ。
 昨日までは蒸し暑い日々が続いていたが、夜半から降り始めた雨のおかげで今日は過ごしやすい――むしろ、肌寒いくらいだ。
 朝の礼拝の終わった教会内はとても静かだ。こと、礼拝堂内はしんとして、礼拝のときのピンとはった澄んだ空気はなく、穏やかな時が流れている。
 説教台の上にはデュトロノミー。ここが彼の定位置だ。いつものように説教台の上で丸くなり、いつものように眠っている。
 そこに寄り添うようにして、すやすやと寝息を立てるのはシラバブ。幼いこの子が何を夢見ながら眠っているのかと考えると、自然と笑みが漏れる。
 マンカストラップは音を立てないように、静かに礼拝堂から出ようとした。
 「いくの?」
 ふいにかけられた声に視線を上げると、黒猫がいつの間にか入り口に立っている。
 「そろそろ、見回りの時間だからな」
 「こーんなにお天気の悪い日なのに?」
 「天気が悪いからこそ、きちんとしないとな」
 「そう……」
 ミストフェリーズはそれっきり、何もきいてこなかった。
 雨だから、何か特別困ったことがあるかもしれない。
 もっとも、何もないに越したことはないけれど。
 少し前に、ランパスキャットが「何かがいる」といっていた。
 「気のせいかもしれないが」と、彼はいったけれど、彼の勘に“気のせい”がないことくらい、わかっている。
 何かがいる――“何”がなんなのかは、まったくわからない、否、わからないほうがいいかもしれない。しかし、用心に越したことはないだろう。
 もっとも、それがただの取り越し苦労に終わってくれれば幸いなのだが。
 「いってらっしゃい」
 「いってきます」
 何か物言いた気な黒猫に片手をあげてこたえると、マンカストラップは雨の中へと出ていった。

 *   *   *

 別に、どこに行くあてがあったわけでもない。
 ただ、あの部屋で憂鬱な時間を過ごしたくなくて。少しでも余計なことから離れていたくて、住処を出た。
 けれど、黙々と一人で薄暗いアスファルトの道を歩いていると、余計な事ばかり考えてしまう。これでは逆効果もいいところだ。おまけに、雨足は先ほどよりも強くなってきたようで、バケツの水を頭からかぶったかのようにずぶ濡れだった。
 ディミータは忌々しげに溜息をつく。
 これでは、住処でねちねちとボンバルリーナから嫌味を言われていたほうがまだマシだったかもしれない、と思い速攻で否定する。
 いつもは驚くほどに私生活のことに口出しをしないボンバルリーナが、ここのところやけに絡んでくる。しかも、その内容の八割はあのエセ紳士ネタだ。そろそろいい加減にうんざりしてきた。
 それから解放されただけでも充分だ。と思い直して、ディミータは再び歩き出す。
 「――……マンカス?」
 しばらくぼんやりと歩いて、角を曲がると、遠くのほうに影が見えた。
 別段これといった理由はないけれど、遠くからでも見間違えたりなんかしない自信がディミータにはあった。
 灰色というよりも銀に近い毛並みに、黒と白の縞。大柄な体つきだけれども、引き締まった体躯なために重さはまったくといっていいほどかんじない。
 マンカストラップは雨の中をゆっくりと歩いてきて、ディミータの前で止まると、「ディミータ」と、名前をよんだ。
 「どうしたんだ?」
 「――散歩」
 「こんな雨の日に?」
 「……雨、だから」
 言ってしまってから、妙だと気付いた。
 変なヤツだと思われてしまったらどうしようかと、はたと口を噤む。
 おそるおそる視線をむけると、マンカストラップは微かに微笑んでいた。どうやら杞憂に終わりそうだ。
 「雨、だから……か」
 と、反芻するように呟く。
 「マンカスは?」
 ディミータは反射的に口を開いていた。
 「こんな雨のなか、何してるの?」
 マンカストラップは、一瞬きょとんとしたように目を丸くすると、苦笑した。
 「俺も、似たようなものだよ」
 それが事実かどうかはわからなかったけれど。深くたずねるでも、否定するでもなく返してくれたことがありがたかった。
 二言、三言、と他愛もない会話をしている最中に、マンカストラップはふいにその笑みを消した。
 「――マンカス?」
 静かに。と、マンカストラップは仕草で示した。
 彼の顔から表情が消える。
 そんなことはないはずなのに、それにつられて空気まで引き締まっていく気がする。
 ピンとした糸のように張り詰める空気。
 あまりの緊張に息苦しささえも感じる。
 「――勘はいいようだな」
 静かな声がした。
 決して大きな声ではないが、しっかりと響く声。
 周りを見渡せども、声の姿はどこにもない。
 もっとも、死角に入られてしまっていればそんなものはわかるはずもないのだが。
 「だが、それだけでは足りない」
 深く、低く響く。
 もう一度周りを見回し、ディミータは愕然とした。
 彼女たちの周りにある死角は、声からしても死角なのだ。
 彼女たちから声が見えない場所は、声からも彼女たちが見えない。
 彼女たちから声が見えないのに、声から彼女たちが見える場所は存在しない。
 鼓膜を通さず、直接脳に響いてくる……!?
 まさか。と自分自身に言い聞かせる。
 そんなことは、普通には不可能だ。
 「……おまえは“何”だ?」
 マンカストラップは訊く。
 「何が目的だ?」
 「――私にそれを訊くのか」
 声は驚いたようだった。
 ――否、あきれたのかもしれない。
 その次に出てきた哂いは嘲笑と呼ぶ以外のなにものでもなかったから。
 「お前はすべて知っているのだろう。私が何で、何のために存在し、そしてお前たちが何なのかを」
 冷たいものが背中をつたった。
 存在しているかもわからないというのに、圧倒的な存在感。
 目の前にこの声の主が存在したらと考えただけでもぞっとする。
 ディミータは息を呑んでマンカストラップをみつめた。
 マンカストラップはこたえない。
 ただ、黙って、一点を睨みつけるだけだ。
 「名を」
 静かに告げる。
 「お前の名を」
 「――影」
 ふっと、その瞬間にすべての緊張が解ける。
 それでもしばらくは動けないままでいたが、いつもとかわらぬ空気を感じると、どちらからともなく詰めていた息をはいた。
 そこではじめて、雨が降っていたことをおもいだす。雨に混じった土の香りにほっとする。
 「いったの……?」
 「たぶん」
 マンカストラップは肯いたが、その表情は今ひとつはっきりしないものだった。
 「――大丈夫か?」
 「何が?」
 「妙なことにまきこんだ――すまない」
 「あんたのせいじゃないじゃない」
 マンカストラップはそれでも納得いかないようで、眉間に皺を作っていた。
 躊躇いがちに口を開く。
 「今日のことは黙っていてくれないか?」
 「え?」
 ディミータは一瞬自分の耳を疑った。
 「虫のいい話だとは思っている――でも、今日、ここであったことはみんなには黙っていてほしい」
 特に、仔猫たちとミストとランパスとタガーには。
 「どうして?」
 「理由についても、きかないでほしい」
 ディミータは口元に手を遣り、ひとさしゆびで細い顎をとんとんと叩いた。
 「たしかに虫のいい話、ね」
 今日のことは黙っていろ?
 下手したら大事だというのに!?
 とんでもない!
 「……私は、今日たまたま散歩にきてた」
 ディミータはいった。
 「たまたま散歩にきたら、たまたまあんたにあって、そこでいつもどおりに会話した」
 静かに距離を一歩縮める。
 「この街で妙なことが起こることなんていつものことでしょ?だから、いつもどおりの日常のことなんて、特に誰にも話さない――わかった?」
 たしかに、とんでもないことだけれど。
 滅多にしない彼の頼みごとだ。
 少しくらいのわがままをきいたところで、それがなんだというのだ。
 「わるいな」
 「別に」
 彼女は彼女でこれ以上ないメリットがある。
 「……散々な日だったな」
 「そう?」
 恐怖を(もっとも畏怖に近いかもしれないが)を目の当たりにしたのは久しぶりだけれど。それ以上に大きなことが。
 秘密の共有――
 どことなく不安になりながらも、これ以上ないというくらいの満足感。
 「寄っていけ」
 「え?」
 「教会に――そのままだと風邪をひく」
 ディミータは、その科白にふきだした。
 本当に、言葉どおりの意味以上のことはないだろうが、あの彼からこんな殊勝な台詞が出てくる日がくるなんて!
 「そうね……」
 わざと興味がなさそうにこたえる。
 「あんたがそういうなら、いってもいいわ」
 ディミータは今日はじめての笑顔をみせた。

















えー、白状すると、コレを書いている段階で関西と東海では梅雨が明けてるそうで……。
か、関東まだだもん!!(や、でももう明けてるようなもんだけどさ)
ディミータとリーダーがでてくると異様に書くのが遅くなる今日この頃。