瞳を開くと、そこはミストフェリーズの怪しげな部屋ではなく、どこかの見知らぬ街だった。 月が出ている。疎らにある街灯と月明かりで、夜だけれども視界に不自由はしなかった。 どこかの倉庫街だろうか、同じ建物がずっと並んでいる。 「ここは……?」 何処からか強い風が吹いている。風が運ぶ香りは塩の匂いがした。 「名もない港町」 聞きなれた声に振り向くと、闇に溶け込むようにミストフェリーズが立っていた。 「いや、人間が呼ぶ街の名前はちゃんとあるんだけど……ボクらにそれは必要ないでしょ」 「みなとまち?」 「そう」 そこに……。とミストフェリーズがすっと右手を上げる。 「今は暗くてわかりにくいけれど、海がある」 「うみ……」 これが、海。 海のない街で育ったジェリーロラムにとって、言葉は知っているけれど、見たことのないものだった。多分、一生見ることはないだろうと思っていただけに、こんな形で見られるとは。 「さ。行こうか。時間が無い」 ミストフェリーズの言葉にジェリーロラムは静かに頷いた。 どのくらい歩いただろう。ミストフェリーズに先導され、見知らぬ街をずっと歩き続けている。何度角を曲がったかはもう覚えていないし、行き止まりになって塀を飛び越えたことも数え切れない。景色も、先程の倉庫街から、寂れた裏路地へと変わっている。 ただ、先程からずっとしているこの香り――ミストフェリーズは「それが潮の香りっていうんだよ」といっていた――だけが変わらない。 「――ねぇ、ミスト」 「ん?」 「ミストは――……グロウルタイガーを知っていた?」 「名前くらいわね」 そう。とジェリーロラムはいった。 「ボクが生まれたときには彼はすでに故人だったよ。ただ、それでも、色々なところを点々としてると噂だけはよく聞いた。『あの“グロウルタイガー”が死ぬはずがない!!』ってね。結構世の中にはグロウルタイガーはまだ生きているって思ってる人が多いみたいだよ」 その話はジェリーロラムにとっても初耳だった。そも、グロウルタイガーが実在したことをしったのがついさっきなのだから無理もないが。 「でも、まぁ……現役時代にイイ年だったっていうから……もし仮に生きててもよぼよぼのおじいちゃんだろうケドね」 「…………」 ついたよ。とミストフェリーズは短く告げた。 「後は君に任せる」 ミストフェリーズがそういうのと、反対側の路地からボロボロの白い猫が駆け込んでくるのはほぼ同時だった。 「どいて!!」 というのがその猫の第一声だった。しかし「どいて」といわれてどける状況でもない。ジェリーロラムはミストフェリーズと目配せすると、その猫を無理矢理引っ張って、路地裏に積まれたダンボールの後ろへと身を隠した。 * * * 「おい!そこの!!」 「なぁに?」 「ここに白いヤツが来なかったか?!」 あぁ、はいはい。とミストフェリーズは頷くと、「あっちに走ってたよ」と住宅街の方を指す。 ミストフェリーズの答えを訊くと、彼らは何も言わずにその方向に向かっていった。 「ふぅ。頭の悪い連中で助かった」 もういいよ。と、うずたかく積まれたダンボールの後ろに声をかける。ダンボールの影から出てきたのはジェリーロラムと白い汚れた猫だった。 「――……どう、いう……つもり?」 走ってきた所為なのか、彼女は息が荒い。 「わたしを、たすけて…も、なんのとく、にもならな…いわよ」 だが、息が上がっているのは何も走ってきた所為だけではなく、明らかに他の要因もありそうだ。まず、第一に、彼女はそんなには若くはなかった。 ジェリーロラムはその顔をじっと見てみた。 疲労の影が色濃く落ちているが、整った顔立ちだ。注意してみると、確かに目元などには小皺があるが、それでも肌の艶と張りは衰えていないし、毛並みは煤汚れてこそいたが、洗えばさぞ艶やかに輝いただろう。それに何より、印象的なマリン・ブルーの双眸。真っ白な中にぽつんとある逸れは、瞳にはまった海の宝石のようだ。 若かりし頃はさぞ美しかったのだろう。 「たしかに。ボクには一銭の得にもならないんだけど……ボクの友達には君が必要なんだ。少なくとも今は、ね」 くるり、とミストフェリーズは此方を向く。 「あんたは……!?」 「初めまして、というべきだろうね。グリドルボーン」 ミストフェリーズがグリドルボーンという名を口にすると、ジェリーロラムは息を呑んだ。 「――……えぇ……はじ、めまして…ミストフェリーズ」 「会えて嬉しいよ、グリドルボーン」 「えぇ、私もよ――で……私に、用があるって?」 「そう。ボクじゃないけどね」 ミストフェリーズに視線で一瞥され、ジェリーロラムは歩み出た。 「ジェリーロラム――ボクの友達の一人」 「色んなところにあなたは友達がいるのね」 「人徳ってヤツだね」 あまりにも親しげに話す二人を見て、ジェリーロラムは「知り合いなの?」とミストフェリーズに尋ねた。 「いや。初対面だよ」 「でも……」 「ジェリー。わからないことが沢山あったほうが、人生退屈しないですむよ?」 なるほど、確かに。それに、どうやらその話題には触れてはいけないことだったようなので、ジェリーロラムは苦笑し、肩をすくめた。 「それで……何の、用かしら?ジェリーロラム」 はう。とグリドルボーンは大きく息をついた。 「時間がないの――……できれば、はやく、してもらえる?」 一言喋るごとに彼女の呼吸は荒くなる。 「――……ねぇ、どこか悪いんじゃない?」 「走って疲れてるだけよ」 そういい終わらないうちに、グリドルボーンは激しく咳き込んだ。乾いた嫌な咳だ。何度かそうすると、急に音が湿る。ゴボ、とでもいうような音が聞こえるのとほぼ同時に、彼女の口の端からは赤い線がつたっていた。 「っ――……!!」 ジェリーロラムが声にならない悲鳴を上げる。ミストフェリーズでさえも、これには驚いたようで、目を見張っていた。 あーあ。とちいさくグリドルボーンは呟くと、口元をぬぐった。 「ごめんなさい。気にしないで」 「はい、そうですか……とでもいうと思ってるの!?」 冗談じゃない。 ジェリーロラムたちの知っている医療技術などないに等しい。それでも、親から子へ、お腹が痛いときは何々を食べなさい、だの、何々は食べると毒だ、だのは伝わっている。しかし、逆にいうと、ようはそれだけだ。怪我をしても傷を舐めることくらいしかしらないし、少しでも思い病気になろうものなら対処する方法はない。 これが常である。 しかし、ここにはミストフェリーズがいるのだ。この非常識に猫離れした頭脳と能力をもつ彼ならば何とかできるような気がした。 「っミスト……!!」 しかし、ミストフェリーズも静かに首を振るだけだ。 「いいのよ」 ぐっと、強い力でジェリーロラムは肩を掴まれた。 「いいの」 「…………どうして」 ジェリーロラムの問にグリドルボーンは「さぁ」と答え、微かに笑った。「横にして」といわれたので、言われたとおりに 彼女を横たえ、上体のみを支えてやる。 「やりたいこと、は…みんなやりつくしたわ。……だから、かしら」 それよりも。とグリドルボーンは続ける。 「私に、ききたいことが…あるんでしょう?」 ジェリーロラムは一瞬躊躇ったが、静かに頷き、グリドルボーンに尋ねた。 「グロウルタイガーを、どう思っていた?」 ジェリーロラムの問に、グリドルボーンは一瞬息を呑んだようだった。 本当は、もっと沢山訊きたいことがあった。例えば、どうしてシャム猫たちに協力したのか、その後どうしていたのか。けれど、彼女の今の姿を見たら、出てきたのはそれだけだった。それ以外のことなどどうでもいいように思えた。 グリドルボーンは、一瞬だけ瞳を伏せ、少し考え込むような素振りをしてから、訥々と答えた。 「――……アレは、私がしてきた仕事の中で、唯一……私におちない男だったわ」 ふっと、力なくグリドルボーンは笑う。 「アドリア海の伊達男も、エーゲ海の水兵も、バルト海のヴァイキングの末裔も……それこそ、シャム猫軍の猛将 ギルバートでさえも、みんな……私に、おちたというのに。グロウルタイガーだけは、私におちなかった」 女性として――否、天下に名だたる悪女として、それはとてもプライドを傷つけられることだっただろうに、それを話すグリドルボーンはどこか楽しげだ。 「……愛していた?」 「まさか!」 途中、何度も咳き込みながらグリドルボーンは続ける。 「私は、私を愛してくれない男に興味はないわ」 「でも……」 「そうね、愛してくれなかった、というのは違うかも、しれない。……ただ、最後の最後まで、あれは……私を女としてみては、くれなかった」 「――――……」 「まぁ、20以上歳がはなれてるのだもん……当然、よね。あれにとって、私は、多分……初孫みたいなもんだったんじゃないかしら」 「愛娘じゃなくて?」 20くらいの差だったならば、孫というよりは子供だろう。 「――少なくとも、娘のように……思ってくれていたら――、私にもチャンスはあった、かもね。仕事が、絡んでさえ いなければ、全滅、になんて――……。嫌い、ではなかったわ。でも、愛しては、いなかった。それはほんとうよ」 「グリドルボーン……」 世間ではそれを愛と呼ぶのではないだろうか?とジェリーロラムが尋ねようとしたとき、グリドルボーンが続けざまに口を開いた。 「でも、恋なら――……していた、かもしれない」 「!?」 そうね。とグリドルボーンは自ら確認するように呟く。 「ただ、あれ、が私を見てくれることだけをかんがえていたわ。どうしたら、あれが、私を見てくれるのか。どうすれば、あれの心の中に、私、が、残れるのか……。本当に、ただそれだけ。仕事……でしょう、といわれればそれまでだけれど……私は、それが仕事であることですら、ギルバート、が連絡を遣してくるまで――忘れていたんですもの」 「――……」 「愛してなんか、いなかったわ。あれのこと、なんて、私は……これっぽっちも、考えて、いなかった」 だから……とグリドルボーンは続ける。 「これは恋なのよ」 自嘲気味に微笑むグリドルボーンを見て、ジェリーロラムはふと気付いた。 「ねぇ、グリドルボーン……もしかして、今も、恋をしている?」 彼女は、『これは恋なのよ』といった。『これは恋だったのよ』ではない。 過去になっていない。彼女の中で、これは今も続いていることなのだ。 「――……えぇ」 躊躇いがちにグリドルボーンは答えた。 「あの後……引き受けた、仕事で――私に落ちない男、は……ひとりも、いなかったもの」 何ともひねくれた理屈だが、同時にとても彼女らしいと思った。 「子供、だったのよ、私は。どうしても、手に入らないオモチャが欲しくて欲しくて仕方がなくて……それでも、どうしても手に入らないとわかったから、壊してしまったの――……そういう、愛し方、しか…できなかった」 そこまで話すと、グリドルボーンは再び激しく咳き込み始めた。 「グリドルボーン!?」 「何度も……自分を呪ったわ」 グリドルボーンはそっと朱に染まった手を翳す。 「何度も、何度も……。私、が失った…ものは、あれ、だけじゃない――同時に、生涯で、唯一信頼できるはずだった……彼らも、自分の手で、失ったのよ。――でも」 震える手をジェリーロラムはしっかりと掴んだ。 「それも、もうおしまい」 今日、あなたに会えてよかった。とグリドルボーンは言った。 「もちろん――あなたにもね、ミストフェリーズ」 「それはどうも」 答えるミストフェリーズは言葉こそ普段どおりであったが、そこにはいつもの茶化したような響きはなかった。 「あの時、私がした――間違えを、あなたが清算してくれてる。私達が、することのできなかったことを、すごすこと のできなかった時間を……あなたたちが、すごして、くれている」 「――?」 「そうなんでしょう、ミストフェリーズ?」 「まぁ、ね」 ジェリーロラムにはその言葉の意味が理解できなかったが、ミストフェリーズには理解できたらしい。そのことが多少引っかかったが、それはもうどうでもよかった。 よかった。とグリドルボーンが初めて晴れやかな笑顔を見せる。 「後は、向こうで――ひたすら、怒られるだけだわ」 「船長に?」 悪戯っぽくミストフェリーズが訊いた。 「あなたにも」 応えるようにグリドルボーンは微笑んだ。 「…………はなし、すぎたかも」 ゆっくりとグリドルボーンは呼吸をする。 「ねむいわ」 ジェリーロラムは何を言うこともできず、ただ、彼女の手を握る手に力を込めた。 ミストフェリーズはグリドルボーンの傍にかがみこみ、ジェリーロラム手にそっと自らの手を重ねる。 「……疲れた?」 「すこし」 「眠ってもいいよ」 「…………そう」 そのまま、グリドルボーンはゆっくりと瞳を閉じた。 幾度か、苦しそうに咳き込み、意識が浮上し、そのたびに彼女は二人と会話をした。 それを何度か繰り返した後、グリドルボーンは明け方頃に静かに眠りについた。 「あなたたちにあえてよかった」 きっと、彼女の瞳はすでに此処を見てはいないのだろうとジェリーロラムは思った。 「ありがとう」 それが、グリドルボーンの遺した言葉だった。 * * * 瞳を開けると、そこは先程と同じ、元いたミストフェリーズの私室だった。 「…………戻って、きたの?」 「そうだよ」 ふぅ。とミストフェリーズは大きく息をつき、床にひっくり返る。 「つかれたー」 「私も」 時計をみると、あそこへ行く前と殆ど変わっていない。やはりあれは現実ではなかったのだ。 「……どんなトリックだったの?」 「失敬な」 といいつつも、ミストフェリーズは苦笑していた。 「あれは紛れもない現実だよ。ただ、それがいつとはいえない。もしかしたら、20年前かもしれないし、10年後かもしれない――まったく同じ時間かもしれない。逸れはボクにもわからない。ただボクは、グリドルボーンの存在した最期の時間を選んだだけ」 「――……そう」 訊きたいことは山ほどあったが、まだそれらはジェリーロラムの中では全く整理がついていなかった。 「勉強になった?」 「大いにね」 まだ手には彼女の重みと、体温が残っている気がした。 「ねぇ、ミスト――」 「ん?」 そこから先が続かない。それでも何事かを言おうとして、口を開いた瞬間、扉が控えめにノックされた。 「ミスト、入っても?」 「いいよ、開いてる」 ごめんね。とジェリーロラムに短く断ると、ミストフェリーズは声の主を招きいれた。 「珍しいね、君がわざわざこの部屋にまで来るなんて」 「本音をいうとできれば近づきたくない」 「だろうね」 何?とミストフェリーズが聞き返すと、マンカストラップは「晩御飯」と即答した。エプロンにおたまという格好が何故様になるのかはこの際深く追求しないことにする。 「シラバブが何度読んでも出てこないというから、仕方がないだろう」 兄馬鹿。とミストフェリーズが口だけ動かすのをジェリーロラムは見逃さなかった。 目を合わせて、二人で忍び笑いをしていると、不意にマンカストラップに名前を呼ばれた。 「ジェリーも、今日は一緒にどうだ?バブがよろこぶ」 「そうね……」 ふと、彼のもっているおたまに目が留まった。 「ねぇ、マンカス……今日の晩御飯って……もしかしなくても、クリームシチュー?」 そうだよ、と彼は答える。 「それが何か?」 「別に」 別にも何も、子供の頃に――まだ、一緒に生活していたときに、ジェリーロラムが好きだったものだ。 いいわ。とジェリーロラムは笑う。 「今日はありがたくご馳走になっていく」 「そうか」 下で待っているから。と言い残して、マンカストラップは一足早くミストフェリーズの私室から出て行った。余程この部屋にいたくないらしい。 「――相変わらずね」 「そうだねぇ――行こうか?」 「えぇ」 部屋を後にすると、ミストフェリーズが訊いてきた。 「――……ジェリーが訊きたかったことを当ててあげようか?」 「?」 「“グリドルボーンとはどんな関係があったの?”――違う?」 ここで白を切っても仕方がないので、ジェリーロラムは素直に頷いた。 ミストフェリーズは「やっぱり」とでもいいたげな表情をすると、面白そうに瞳を廻らした。 「後で、劇場に保管されている初演の“海賊猫の最后”の写真をみてごらん」 「?」 「その後に、当時の“グロールタイガー”と“グリドルボーン”それといわゆる5人の“クリュー”の写真を見比べて見るといいよ……多分、やっぱり劇場のどこかに資料で残ってる」 益々訳がわからなかったが、ジェリーロラムは反射的に頷いた。 そんな彼女を尻目に、ミストフェリーズは軽快な足取りで階段を降りて行ってしまった。 古びた二枚の写真をみて、ジェリーロラムが驚きの悲鳴を上げるのは、もう少し後の話。 |
…………ミストとジェリー異色組み合わせ(トムとジェリーみたい・笑)。 中身のは今までになくマジに書いていたのですが。 リーダーのエプロンは白地にフリルで、縫い取りは金だといいと思います(大マジ)。 |