1
 「―――……」
 嫌になるくらい快晴の空を見上げると、タガーは甲板にごろんと寝転び、くあぁと大きく欠伸をした。
 交替制の見張りの時間。エメラルドグリーンに輝く海は穏やかで、見渡せど周りには、敵影はおろか、自分達以外の船など影も形もない。
 ヒマである。
 どうしようもないくらいにヒマである。
 うっかり船縁にとまっている海鳥に話しかけてしまいそうになるくらいヒマである。
 クェ、と小さく鳴き、鳥が海に飛込む。鳥は一瞬で獲物を捕まえると、おとなしく戻ってきた。わざわざタガーの目の前まできて、おいしそうに魚をついばむ。
 「――……おまえら、何も悩みないだろ」
 鳥はタガーの言葉を知ってか知らずか、クェクェと二度鳴いた。
脳天気に魚をつつく姿をみていると、その魚ともども捕まえて焼き鳥+焼き魚にしてしまいたくなる。
 ゆらゆら揺れる鳥のお尻がチキンに見えてきたら末期である。
 捕まえたら、マンゴが夕飯にしてくれるかもしれない。
 「タガー!」
 ふとよばれ、阿保な思考を中断した。
 視線を向ければ、鮮やかなマリンブルーの瞳と視線が合った。
 彼女は軽やかに階段を昇ってくると、彼の隣に腰を下ろした。
 「ねぇ、今ヒマ?」
 「いんや。ちっともヒマじゃねぇ」
 「いじわる」
 と、覆いかぶさるように視界を塞ぎ、ゆっくりと口づけする。
 ただ触れ合うだけの遊びのキス。
 彼女は鳥だ。
 高慢で、気まぐれで、美しい。
 「おまえの方がよっぽど根性悪だわな」
 「あら、ほめてくれるの」
 自分たちは魚。
 いつしか、気まぐれな彼女にきっと食べられてしまうのだろう。


2
 コトコトとお鍋の煮える良い音がした。
 「ねぇ、お鍋」
 「おう」
 じゃがいもの皮を剥く手を止めて、マンゴは火の元へ向かった。鼻唄を歌いながら、火加減を調節し、戻ってくる。皮剥きを再開すると、彼女が訊いてきた。
 「ねぇ、今日のごはんは?」
 「カレー」
 とマンゴは即答する。
 「気のせいかしら?昨日もカレーじゃなかった?」
 「おう」
 「……」
 「カレーは二日目がうまいのだ」
 そして明日はドライカレー。とのたまったら、さすがに少し悲しい顔をされた。
 「カレー、好き?」
 「それもあるけど、日持ちするし、栄養偏りにくいし、何ででも作れるから」
 いっちょまえにコックらしいことをいってみたが、いまひとつサマにならない。
 彼女は「ふぅん」と曖昧に返事をすると、こてんとテーブルの上に頭をついた。じっと彼の手元を見つめてくる。
 「――……どうした?」
 「私にも、できる?」
 「何が?」
 「それ」
 じゃがいもの皮剥きを差しているのだということに気付くのにずいぶんかかった。
 そういえば、不思議と彼女からは生活感が全く感じられなかった。料理をしている彼女なんて想像もつかない。
 「練習すれば、誰でもできるよ」
 「本当に?」
 やってみるか、と手渡すと、しげしげとじゃがいもと包丁を見比べる。その様子が、普段の彼女とはあまりにもかけ離れていておかしくて。
 「まぁ、オレほどには無理だろうけどね」


3
 船縁に座りながらぼんやりと空を見上げる。
 雲量は3、風力は2。晴れた穏やかな天気だ。
 「――――……ごはん、釣れそう?」
 いわれ、ミストフェリーズははっとした。
 気が付くと、真後ろにグリドルボーンがたっている。
 「いや――……まだわからないね」
 「そう」
 何せ、彼女に言われるまで自分が釣糸を垂れていることすら忘れていたのだから。
 「座っても?」
 「どうぞ」
 それっきり会話が続かない。
 どうしたものかと困っていると、彼女の方から口を開いた。
 「“そろそろ舞踏会の準備ができた。料理の準備はどうだ、料理長殿?”ですって」
 低く呟く。
 ミストフェリーズは苦笑し、えいっと釣糸を勢いよくひいた。
 「“まだメインにする魚も釣れていない”ほら、この通り」
 おもしろそうに肩をすくめると、先を続ける。
 「“今は広間を掃除してお客を待つべきだ”とおもうよ、僕は」
 ふうん。と、彼女は曖昧にうなずいた。
 「じゃあ、“ダーリン”にそう伝えておくわ」
 「よろしく、“マダム”」
 「やだ、せめて“レディ”って呼んでよ」
 「“ミズ”が妥協点だね」
 「イジワル」
 まぁ、いいわ。というと、グリドルボーンは立ち上がった。
 「行くの?」
 「そうよ。用事はそれだけ。この後は、グランブと航路の打ち合わせしなきゃならないの」
 「うわ、流石やもめキラー」
 と冷やかすと、彼女は意外にも真剣な表情をした。
 「――……それが、案外手強いの」
 「は?」
 「ごめん、なんでもない」
 と、いうと、まっすぐに船室へと歩きだす。
 船室の入口のドアノブに手をかけると、グリドルボーンは振り向いた。
 「――――……魚なんて釣れなければいいと思わない?」
 「そうだね」
 瞳を伏せると、彼女は扉の向こうに消えた。


4

 机に広げた海図の一点を形の良い爪の先で指す。
 「―――……西は、この時期やめたほうがいいわ。シャム猫軍の“イザベル”が演習中のはずだから」
 そこからつつつと右に向かってグリドルボーンは指を這わせた。
 グランバスキンは少し難しそうな表情をし、黙りこむ。
 「東なら大丈夫。ポリクル家とペギニーズ家は、今、あなた達に構ってられるほどヒマじゃないもの」
 「……」
 「私のオススメは断然東回りよ」
 グリドルボーンが言い終わると、グランバスキンは口を開いた。
 「西にしよう」
 「――……あなた私の話きいてた?」
 「勿論」
 しっかりと頷く。
 「ギルバート将軍の“カテリーナ”がいるならば避けなければならないが、リーナ大佐の“イザベル”なら問題ない。むしろ、この時期は東に進む方が余程危険だ」
 「?」
 視線で理由を問うグリドルボーンにグランバスキンは短く答えた。
 「大渦が出る」
 その一言にグリドルボーンは嘆息した。
 「だったら、わざわざ私に聞く必要ないじゃない」
 「念のためだ。時間を取らせて悪かったな」
 「別に。あなたさえよければ、私の時間はいつでも空いているのよ?」
 彼女の腕が伸びる。ほっそりとした白い手が頬に触れる直前にそれを掴む。ゆっくりと下ろして絡んだ指を解き、軽く押し戻してやると、グリドルボーンは露骨に嫌な顔をした。
 「ちょっと!それが淑女にする態度!?」
 「淑女という柄でもないだろうに……」
 「あなたって本当にあの人にそっくりね!」
 やれやれとでもいうようにグリドルボーンは肩をすくめる。
 あの人、とはいうまでもない。
 この悪女は船長にも似たようなことをして御丁重にお断りされたに違いない。
 ねぇ。と唐突にグリドルボーンはいった。
 「名前で呼んでもいい?」
 「……もう呼んでいるだろうが」
 「そうじゃなくて」
 “グランブ”とグリドルボーンはグランバスキンのことを呼ぶ。
 「あなたの本当の名前」
 「!?」
 「――――……」
 「あなたが、亡くしてしまった名前」
 答える代わりに、「“レディ”」とグランバスキンは彼女を呼んだ。
 瞬間、彼女の方眉がぴくんとはねあがる。
 「誰にでも、思い出したくないことの一つや二つあるものだろう?」
 「――あなたって意外と性格悪いのね」
 「お互い様だ」
 グリドルボーンは溜息をつくと、興味を無くしたかのように、距離をとった。
 「そんなにカタブツだからいつまでたっても女ができないのよ」
 「余計なお世話だ」
 面白そうにグリドルボーンは声を立てて笑い、扉に向かった。
 もう行くのか?と問えば、
 「あなたとお喋りするのは結構好きなんだけど。スキンブルに診察してもらう時間だから」
 と返ってくる。
 「そのうち、あなたのほうからあの名前で呼んでくれって言い出す日が来るわよ」
 一瞬、何をいわれたのか理解できず。
 呆然としているうちに、グランバスキンの目の前で扉はパタンと小さな音を立て閉まった。


5
 「ドクター!ドクター!!」
 慌ただしく彼女は――およそ淑女とは程遠い足取りで――部屋へと入ってきた。
 「ちょっともう信じらんない!あの堅物ってば、オールド・ミスよりも堅物だわ!!」
 肩を怒らせて部屋を横切り、患者用の寝台へと腰をおろす。
 「こーんなむさ苦しい男所帯のなかで健気に咲く一輪の花の私の、よりにもよってこの私の!お誘いを断るなんて…………!!つくモノ付いてんのかっての!?信じらんない……!」
 わあぁぁん!と、大袈裟に顔を手でおおって、ベッドにこてんと転がる。
 「……下品だよ、グリドルボーン」
 「だってぇ」
 しゅんとした様子でグリドルボーンはクッションをかかえこむ。
 仕草とは裏腹にグリドルボーンの瞳には強い光があった。
 「許せないの。私に堕ちない男がいるなんて」
 「大きくでたねー」
 スキンブルは苦笑した。
 なんて不遜な物言いだろう。それでも、そう言わせるだけのものがあるのだから仕方がない。
 チェリー・ブロンドの艶やかな毛並にあざやかなマリン・ブルーの瞳。誰もが目を奪われるその美貌。
 しなやかな肢体はそれでも女性らしさを損なうことはなく。
 気まぐれに歌う声は船乗りを誘惑するセイレーンそのもの。
 若干性格が悪いところすらも彼女の魅力だった。
 「まぁ、すべての男の好みが君みたいなタイプだとは限らないよ」
 と、一応フォローはしてみるものの、グリドルボーンはやはりまだ不満なようだった。
 余程あの堅物が気に入っているらしい。
 「だって……私はアレがいいんだもん」
 クッションのボタンをいじりはじめた。苛々したときの彼女の癖だ。彼女の苛々のおかげで、そろそろクッションのボタンの寿命もあぶない。
 「――――……売約済みでも?」
 「昔の女に操立ててるって?ドクターまでミストと同じこといわないでよ」
 「いや。現在進行形」
 「大丈夫。死んだひとには敵わないけど、生身が相手ならこっちの勝ちよ」
 「――――……」
 本当に、諦めの悪い。
 相手はだれ?と、グリドルボーンは訊いてくる。
 「魅惑の12才児。超絶ロリータ美少女。口癖は『おっきくなったら、おにいちゃんのおよめさんになってあげるね』」
 ぴくっとグリドルボーンの片眉がつりあがった。
 「ということで婚約済み。ちなみに特技は泣き落とし」
 「――ちょっとまって………………ロリコンだなんてきいてないわよ!?」
 「聞いてなくても真実はいつも一つ」
 「ウソ!?」
 「残念でしたー」
 本当のところは少しだけ違うけど。
 「…………信じらんない」
 このままのほうがおもしろくなりそうだから。
 「まぁ、せいぜいがんばって」
 しばらくは教えてやらないことにしよう。


6

 見送りはいらないといったけれど、いざ船を降りるとなったら全員が見送りに出るだろうということはわかりきっていた。
 本当に人がいいんだから。
 とグリドルボーンは苦笑する。
 そう、彼等は本当に人がいい。軍人にあるまじき人の好さだ。
 だから、船が寄港した時にひっそりと抜け出すことにした。
 月のない夜。
 闇に紛れて動くには格好な晩だ。
 彼等と宿の住人が寝静まるのを待ち、静かに部屋を抜け出す。
 たったそれだけ。
 それでおしまい。
 次に会うのは仕事を終えたときだ。
 「……あきれた」
 グリドルボーンは呟いた。
 「そんなところで何をしているの?」
 「――……そろそろ頃合だと思ったからな」
 何のことはない。待ち伏せだ。どうやら相手のほうが一枚上手だったらしい。
 「いわれなくてもわかっていると思うが」
 「『これは仕事だ。忘れるな』でしょう。将軍?」
 彼はその言葉に不快そうに眉をひそめ、「准将だ」と訂正した。
 「わかっているならそれでいい――行け」
 彼は無愛想にそう言い放った。
 「ちょっと!それだけ!?」
 それこそ別に見送りなんぞという殊勝なものを期待したわけではないが。
 「気をつけて」の一言くらいあってもいいではないか。
 それなのに、この堅物ときたら、「他に何かあるか?」ときたもんだから、たまったものではない。
 仕方なしにグリドルボーンは「別に」とふてくされたようにこたえた。
 「あなたの首が危うくなるくらいの情報掴んできてやるんだから」
 「あぁ。期待している」
 「…………」
 だから嫌なのだ。この男は。
 そんなふうに言われたら、嫌でも頑張ってしまうではないか。
 「まぁ、そのときまで、せいぜい生き延びてちょうだい」
 グリドルボーンはそういうと、ひらひらと手を振って、その場を去った。







全部まとめてあとがき。