16:踏み締める

人はとても脆いものだよ。
そういわれたのはいつだっただろうか。
随分前だった気もするし、つい最近だった気もする。
何故?と問うと、彼は困ったように微笑って、こういった。
人間は怪我をしたり病気をしたりするとすぐに死んでしまう。君の身体の中の水分や血液が規定量より減ってしまえば、それだけで肉体としてもう機能しなくなる。体内にほんの少しでも異物が混入すれば、それが死にいたることだってある。
そんなの、他の動物だって同じだ。
と、そのときピコは反論した。
どんな生き物だって血を流しすぎれば死んでしまうし、病気になればそれがそのまま死に繋がることだってある。
そういい、
人間は色々な技術でそれを克服しつつある。技術がある分、他の動物達よりも脆くなんてないのではないだろうか?
と、問い返した。
確かに。
彼はピコの言葉に同意しながらも、こうこたえた。
肉体的な脆さは他の動物も持ってはいるね。そういう意味では、君のいうように人間は他の動物よりも強いのかもしれない。でもね、それでも、私は人はとても脆いものだと思うんだ。
よく、わからない。
ピコがそういうと、彼は苦笑し、ピコに訊いた。
人は、何でできていると思う?
わからなかったのて、ピコは脳みそと内臓と骨と筋肉と答えた。
この答えはどうやら彼の気に入ったようで、彼はひとしきり笑った後に、おしい!と言った。
人はね、肉体と魂でできているんだ。
どこかの漫画みたいな言葉が信じられず、ピコが怪訝な表情をしていると、彼はこう付け足した。
わかりにくかったら、身体とこころでできているといってもいい。
それなら、なんとなく理解できたので、ピコは小さく頷く。
こころは身体の中にある。こころを包んでいるもの――器が身体だといってもいい。人のこころというものはとても脆い。下手に触ると簡単に壊れてしまうし、もとには戻らない。人間のこころを包むには、人間の身体は弱すぎるんだ。
どういうこと?
と、ピコが問うと、彼は少しかなしそうな表情をした。
人のこころは簡単に壊れてしまう。そうした人が何をするか、君も知っているだろう?そうしたときに、それに耐えられるほど人の肉体は強くできていない。当たり前だね、そんなことは想定して創られていないのだから。他の動物はまずそんなことはしないね。
――だから、人はとても脆いものなんだよ。

「少し、話したいことがあったの」
そう言うと、目の前の相手は露骨に眉をひそめた。
当然だろう。たった一度、偶然(ピコにしてみれば必然だったわけだが)会話をした相手からいきなりいわれる台詞ではない。まして、こんな深夜に、だ。
全く――本当に時間を考えて欲しいものである。
ピコはちらりと後ろにいる彼を見た。彼はいつものように飄々とした表情を崩さない。こうなったら、最後まで口出しせずに傍観をきめこむことだろう――いつものことだ。
「話したいこと?」
「そう」
「こんな時間に?」
「うん」
彼は訝るような表情をし、首を傾げる。
予想通りの反応すぎて驚きもない。
「――あれから見かけなかったけど?」
「うん、あたしも。会えたらいいなとは思っていたんだけど」
あのね、とピコはいう。
「ええと……ああ、そう、あの……あたし、やっぱり予備校入るの止めにすることにした」
「そう……」
少し戸惑ったようだが、そのひとはすぐに「いいんじゃないかな」といった。
「まだ時間はあるんだし。君のやりたいようにやればいいと思うよ。無理をすることはない」
「うん。あたしもそう思って。でもね――だから、あそこに行ってみたの」
「――無駄足だったとしても、無駄だったってことがわかれば、それでいいと思うけど」
「ん――そうだね。無駄、じゃあなかったかな」
本来の目的は――このひとに会うという目的は既に達成できた。そういう意味では無駄ではない。まぁ、このひとは違うことを言っているのだろうが。なんとも噛み合わない会話だ。
「それで?話って?」
まさか、わざわざそれだけをいいにきたんじゃないだろうな。
直訳するとこんなものだろうか。
今更ながら、こんな非常識な時間に非常識な方法で連れ出した彼を恨みたくなる。もっとも、それは立派な責任転嫁の逆恨みなのだけれど。
「――……ききたいことがあって」
「ききたいこと?」
ピコは頷く。
さて、どういったものか――。
おそらく、そのままの要件をいったところで、このひとは益々不審がるだけだろう。下手をすれば話をきいてくれなくなる。
ピコは一つ一つ言葉を選んで、訊いた。
「――受験生、って……大変?」
「そりゃあ、まぁ」
そんなことか、と笑った。
「ひとにもよりけりなんだろうけど、大変じゃないひとなんていないんじゃないかな」
「死にたくなるくらい勉強しないと、ダメ?」
「さぁ……ひとそれぞれだと思う。本人の力の差もあるし」
「入りたいところがあったら?」
「それに見合う努力を」
「勉強、つらい?」
「そうだね。勉強は嫌いではないけれど、そればかりやるのはつらいな」
でも、もっとつらいことがあるから。
と、そのひとはいう。
それは何?
そう問うと、そのひとは苦笑した。
「自分の努力に結果がかえってこないことだよ」

人はとても脆い。
その通りだ、と今になって思う。
でも、不思議なことにそれを悪いと思ったことは今までに一度もない。
多分、これからもないだろう。

「――……勉強、ばかりしてると……イジメ、とかされる、かな?」
ピコは躊躇いがちにそう訊いた。
そのひとはは一瞬だけ表情を消し、「……場合によっては」とこたえた。
「周りがどういう状況かにもよると思う。周りがすごく勉強してるなら、そんなことはないだろうし――そういう場合は、遊んでるほうがイジメの対象になるんじゃないかな」
「……ん」
「それに、何をイジメと感じるかはひとそれぞれだから」
何を、考えていたのだろう。
理解できると、理解しなければと、そんなことを考えていたのだとしたら、それは思い上がりだ。
思えば、無理な話だ。
多分、ピコがこのひとを理解することはない。このひとではないのだから当然だ。同様に、このひとがピコを理解することもない。
それでも、慮ることはできるはずだ。
理解することはできなくても、このひとが何を思って、何を感じたかということを思い量ることはできる。わかりあうことはできなくても信じることはできる。
そう思いたかった。
「そうだね」
とピコは呟いた。

脆かろうが何だろうが、人とはそういうものだろう。
何があっても壊れたりしないようなこころなんてこころとはよばない。
どんなことがあっても死なないような身体なんて恐すぎる。
そんなものにふれたって、ぬくもりも何もないに決まっている。
触れた指先が体温を感じられないなんてかなしい。
そんなの、寂しすぎる。
例えどんなに脆いものであっても――それをもっている人が、ピコは好きだった。

ピコは深く呼吸をした。
深く呼吸をすると、こころも落ちつくし、身体を――五体を感じることができる。
あのとき以来の癖だ。身体を感じられる限り、こちら側にいられる。
「もう一つだけ、訊いてもいい?」
「どうぞ?」
ピコは地面を踏み締め、そのひととの距離を詰めた。
   
    
    





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