ゆめのあとさき

 瞳を開くと、見慣れた天井が目に飛び込んできた。
 ――朝。
 カーテンの隙間から差し込む陽の光が眩しい。
 寝ぼけたまま、何とはなしに、利き手で頬に触れ、その感触に驚いた。
 ……さわれる。
 それはあたりまえなことだけれど、今まで頬がこんなにも柔らかくて温かいものだということを忘れていたような――そんな気分だった。
 それから、いつもと同じようにベッドから出ると、いつもと同じようにパジャマを脱ぎ捨てて服を着た。
 何か、変な感じがする。
 何も変わっていないはずなのに、大切なことを忘れているような。
 学年が変わった時の気持ちに似ているかもしれない。新しい教室になったことはわかっているのに、どうしても古い教室にいってしまいたい、そこに何かやり残したことがあるような――そんな感じだ。もっとも、今は7月で、進級してから随分たつのだけれど。
 胸のあたりに引っかかりを抱えながら、それでもいつもと同じように部屋をでた。
 そして、いつもと同じように階段を下りていくと、いつもと違って、リビングが騒がしいことに気付いた。
 マナー違反ではあるが、よくよく聞き耳をたててみると、複数の人の話声がする。
 知らない人だ。
 お客さんでも来ているのだろうか(とはいえ、こんな朝早くから来る非常識な客なんて想像もできなかったけれど)、と不思議に思いながら居間の扉を開ける。
 「おはよう」
 と、言いながら中へと入ると、居間中にいた人達が一斉にこちらをみた。
 「ピコ!」
 と、大きな声で名前を呼ばれる。それは、怒ったような驚いたような――嬉しいような、よくわからない声だった。
 改めて部屋の中を見渡せば、お客さんだと思った人達は全員見たことのある青と紺の制服を着ていた――お巡りさんだ。
 ピコは首を傾げて考えた。
 怒られるようなことはしていない。
 少なくとも、お巡りさんを呼ばれるようなことは何も。
 「えぇと……お、おはよう、ございます?」
 どうしたらいいのかよくわからなかったので、ピコはとりあえず頭を下げた。
 そのタイミングを見計らったかのように、怒声がとんでくる。
 「あんた、一昨日の夜からどこ行ってたのよ――!?」
 どこにも行ってないけど!!
 そう答えようと、喉元まででかかった言葉を飲み込む――瞬間、頭の中で綺麗に歯車がかみ合った。
 そして――……

 *   *   *

 それからしばらくした日の夜中、窓の外にありえるはずのない気配を感じて、ピコは窓を開けた。
 ピコの部屋は二階だ。それに、窓の外には人や動物が立っていたりできるような場所はない。
 そんな場所にいられるものがいるとすれば、心当たりは一つしかなかった。
 ガラガラっ、と勢いよく窓ガラスをスライドさせると同時に、窓の外をキっと睨みつける。
 そこには案の定、予想通りのひとがいた。
 「――……まってたわよ」
 「おや、それは光栄だね」
 そのひとは、ピコに向かって微笑いかける。
 彼は、夜空と同じ色の丈の長いコートを着て、洒落たステッキを片手に、難なく宙に立っていた。
 「“コウエイだね”じゃないわよ!」
 ピコは窓から身を乗り出して、怒鳴りつける。
 「あの後、エラい目にあったんだから!本当のことなんていえないし、ケーサツには連れていかれるし、病院では検査とかされるし、外出は禁止になるし!おまけに皆勤賞のがしちゃったのよ!」
 「それは大変そうだねぇ」
 「他人事だと思って!どうせなら、ちゃんと時間差のないようにしてよ。じゃないと、こっちも大変なんだから!何かよくわかんないけど、時間いじったりするのっておじさんの得意なことでしょう!?」
 「あー、時間は常に一定速度で流れているのであるから、巻き戻るという概念はないわけであって、尚且つ、過去を変えてしまうと未来即ち、後の時間までもが消失してしまうから、この場合時間そのものをいかに捉えるかというところから始めなければならないのだが、そうすると、絶対的なものとして時間を定義するところにまで戻らなければならない。だとすると、いじる、いじらないという行為を加える余地はなくなって、あるのは時間のみということになるんだけれど……」
 「難しい話はいいの!できるの、できないの、どっち!?」
 「……君の頼みだ。善処しよう」
 「ありがとう」
 ピコは勝ち誇ったように、にっこりと笑う。
 「ねぇ、あの後、どうなったの?マコは?メソは?みんなは?ちゃんと光の国に行けたんでしょう?」
 「知りたいかい?」
 「もちろん!」
 ピコは窓枠を掴む手に力をこめた。
 「君のそういうところが好きだよ、私は。でも、その話はまたの機会にとっておこう」
 「?」
 「光陰矢の如し。時間は待ってはくれないよ」
 さぁ。と、彼は手を差し出す。
 「『冒険が欲しい』――そうなんだろう?」
 “私――冒険が欲しい。”
 “ただ、危ないだけのじゃなくって。今度のことみたいに、とてもすてきな思い出になるような冒険が……。”
 覚えていてくれたんだ。
 と、声には出さずに呟く。
 「あたしも、おじさんのそういうとこ好きよ」
 ピコは笑って、ためらいなく彼の手を取った。


 さぁ、今夜もまた、夢の幕を開けよう――







あとがき