物語が終わって―― 彼女は暗闇の中にいた。 上も下も前も後ろもなにもない。 自分の手をみてみようと思ったが、どんなに瞳をこらしても自分の手のひらすらも視えなかった。 ただ、透明な闇。 不思議と、不安や恐れはなかった。 何もみえないというのに、こころはとてもおだやかで落ちついている。凪いだ湖面のようだ。 ただ、さみしかった。 こわくもおそろしくもないけれど、さみしい。 どこかにぽっかりと穴が空いてしまったような――だいじなものをどこかに置き忘れてしまったような。 大切なひとに、もう二度と会えないような。 さみしい。さみしい。さみしい。 ――このまま眠ってしまおうか。 何も考えず、何も感じず、このまま。 そうすれば、このさみしさもなくなるかもしれない。 目が醒めたときに待っているものが今と変わらないものだとしても。 ほんの少しの間だけでもいいから夢をみたかった。 ほんのいっときのことだとしても、虚構の中へ―― 「あぁ、こんなところにいた」 ふいに、どこからか声がした。 慌ててあたりを見渡せば、真っ暗な中に一人の男の人が立っているのがみえる。 相変わらず明かりも何もない暗闇の中だというのに、彼の姿は不思議とはっきりとみえた。 「おつかれさま」 そう言う声はとてもやさしい。 よく知っている声だ――とても懐かしい声。 姿が近づくにつれ、相手がどんな様子なのかも大体わかってきた。 彼は周りの暗闇と同じ色の丈の長いコートを着て、目深に帽子をかぶっていた。 彼女と会話ができるくらいの位置にくると、彼は手にしていたステッキを身体の正面に回し、両手で構える。 「どうしてこんなところに?」 「……わからない」 わからない?と、彼は聞き返し、困ったように苦笑する。 「もう一度、ゆっくり考えてごらん。理由のないことなんてないのだから」 言われ、その通りにする。 すると、殆ど反射的に「終わったから」と、口が動いていた。 「終わったから。だから、あたしはここにいるの」 「終わった?何が?」 「物語が」 物語が終わって。 終わったら、終わった物語はどうなるのか。 そんなことは決まっている。 「いつまで?」 「いつまででも」 過ぎ去った場面は片端から消えていき、出番の終わった登場人物は眠りにつく。 虚構は所詮虚構だ。 束の間の夢を与えられればそれでいい。 現実に夢は必要ない。 「物語は終わったの。だから、あたしは必要ない。現実に夢は必要ないもの。必要がないんだから、あたしはいつまででもここにいる」 それはとても自然なこと。 目が醒めたときにそこにいる自分は、今の自分とは違うものだけれど。 それは仕方のないことだ。 物語の登場人物は、物語の中でしか生きられない。 一度終わってしまった物語は、それでおしまい。 もう一度最初から同じように始めたとしても、同じものは二度とはできない。 だから、今の自分はずっとここにいなければならない。 それが、虚構にとっての現実。 ここで眠れば、きっと現実という夢をみるのだ。 彼はその言葉に寂しそうに微笑う。 「夢を必要としないものがいるだろうか」 「虚構は虚構なの。虚構は現実にはありえない。あってはいけないの」 予め創られた話。 逸れることない途。 不変の黄金律を守り続ける――残酷なまでに優しくて、綺麗な完全な世界。 造り事でない限りありえない。 そんなものはあってはいけない。 「現実とは何だろう?」 「そんなの決まってるじゃない」 同じことの繰り返しで退屈な――この暗闇のようにしあわせな。 「では、虚構とは?」 「……」 こたえに詰まった彼女を一瞥すると、彼は手にしていたステッキである一点を差した。 その方向を見やれば、すっと舞台の幕が左右に開くように暗闇が裂け、そこから光が差し込んでくる。それはすっと一本の道を作った。 「現実とは、虚構とは何だろう――この問にこたえられるものは誰もいないだろうね、きっと。確かに、向こう側にいる彼等にとっては我々は虚構であり造り物だ。では、我々は?我々には虚構こそが現実であり、全てだ。我々にとっては、彼等こそが虚構なんだよ」 合わせ鏡の向こう。 コインの裏と表。 裏の裏は―― 「現実とは虚構であり、虚構とは現実だ――だから、」 必要のないものなんてない。 「生きるとは、即ち、夢をみることなんだよ」 さぁ。と、彼は手をさしのべる。 「行こう」 「でも」 「終わらない物語なんてないんだ」 「――」 「だからといって、自分で終わらせてしまう必要はない。違うかい?」 彼女は小さく頷くと、躊躇いがちにその手を取った。 これは誰でもない、彼女の――彼の、彼等の物語なのだから。 「皆が君を待っている」 そして、彼女は光の道の中に一歩踏み出した。 |
あとがき |