誰もいない廊下をピコは一人で走っていた。
 窓から射しこむ西陽が、ピコを照らし、その一つだけの影を廊下に長く伸ばす。
 下校チャイムの鳴り終わった校内には、生徒の姿は殆どない。
 四月も半ばになると陽は随分長くなる。下校時刻をとうに過ぎたというのに、まだ外は明るかった。
 四月。
 ピコは高校生になった。
 なんとか第一志望の高校に入学することができ、新生活が始まった。
 高校は中学校までとは違う。
 なんていうのは使い古された台詞だと思っていたが、入学して早二週間足らずでそれを実感している。
 見知らぬクラスメイト。
 進度の早い授業。
 電車通学。
 地元の小学校から中学校へと上がった身としては、全て初めてのことだった。
 何もかもが初めてだらけの状況は決して嫌いではない。今までだってそれなりに何とかなってきたんだから、今回だって大丈夫。
 根っから楽天的なピコはそう信じてはいるけれど、それでも不安は簡単に消えるものではない。
 この環境に慣れるまでにはまだ少し時間がかかりそうだった。
 教室の引き戸を勢いよく開ける。
 案の定、教室の中には誰もいなかった。窓際から2列目、前から数えて3つ目の席――ピコの席にぽつんと鞄がおいてあるだけだ。
 あたりまえだ。委員会がなければ、ピコだってさっさと帰っている時間なのだから。
 電気の消えた教室内は薄暗かったが、窓から射し込む西陽のおかげで視界に不自由はしなかった。
 机の中から教科書とノートを取り出して、鞄に詰め込む。
 仕上げに筆箱を放りこもうとして、狙いが外れた。床に落ちたプラスチックの筆箱はそのはずみでフタが外れ、その中身は全て床にぶちまかれてしまう。
 ……サイアク。
 と、声に出さずに呟いて、ピコは床にばらまかれたシャープペンシル達を拾いはじめた。
 内心で毒付きながらも一通り拾い終え、その数を数える。足りない数に首を傾げながら、床を見渡すと、赤のボールペンが教室の一番後ろの方に転がっていた。
 ――これでは気付かないはずだ。
 溜め息混じりにピコはそれを拾いに行く。
 よいしょっ、と、年甲斐もなく声を出して、屈んでボールペンを拾いあげる。
 立ち上がった瞬間、陽射しの眩しさに思わず目を細めた。
 角度のせいだろうか、光が一点を射しているように見える。何かに引き寄せられるようにピコはそこに近づいていき、そして足を止めた。
 ――……この席……。
 窓際の一番後ろの席。
 縦6列×横6列の座席のブロックからそれは一つだけ外れていた。
 ついこの間、クラスメイト達が噂をしていた席だ。
 “先輩から聴いたんだけど、何年か前にあの席に座ってた子が自殺しちゃったんだって”
 “どうして?”
 “アレ。イジメ”
 “ええ?あたし、受験を苦に――ってきいたよ?”
 “とにかく。その子が自殺しちゃって以降そのままらしいよ”
 何とはなしにピコは机の右上に手をのばす。
 そこには学校から配布された名前シールを貼ることになっていた。貼られたシールに書かれている名前に憶えはない。
 それでも、その名前は懐かしかった。
 「そっか……」
 大切なものを扱うように、ゆっくりとそれをなぞる。
 「そこに、いたんだ」
 思い出せば――忘れなければ。
 ずっと、そばに。
 無人の教室内でピコの言葉に応えるものは誰もいない。それでも、あたたかく射しこむ光がそれにこたえてくれた気がした。














たわごと