着替えが終わると、それを見計らったかのように扉がノックされた。 コンコン、と規則正しく、控えめに二回。 「どうぞ」と応えると、キィと小さく軋む音と共に扉が開く。 入って来たのは此処にいる間に見慣れた――役人だ、此処の。 そのひとはこちらの姿をみとめると、驚いたように目を見張る。 「見違えましたか?」 と訊けば、「馬子にも衣装」と、返ってきた。 「豚に真珠、猫に小判――と。ひどいですね。事実ですが」 この日の為だけに作られた服は、真っ白な、古風な型のワンピースだ。襟刳りが深めに取られている他は、一切装飾らしい装飾はない。唯一、それらしきものといえるのは共布の飾り帯くらいだろうか。 故郷の娘達は、皆これに憧れていた。 子供の内は綺麗な衣装を着ることへ。年頃になったら、伴侶となる相手への思慕とともに。 夫の色に染まれるようにとの意味で選ばれたのは気に入らなかったが、それでも、この色は決して嫌いではなかった。 ――真っ白な婚礼衣装。 結局、袖を通すことはなかったけれど。 もっとも、憧れと現実は程遠いもので。実際に着てみて、これがいかに自分に不似合いかということは十分よくわかった。 足元まである丈は、一歩ごとに優美な線を描いてくれるけれど、普段、足取りに気を使ったことがない身としては、裾が絡まって歩きにくいことこの上ない。大きく開いた胸元は貧相な体型を目立たせるだけで、かえって逆効果だ。 「まぁ、いいんです。服に罪はありません」 そうこたえると、冗談だ、とそのひとは言った。 この日の、自分のためだけに作られたものが似合わないはずがない、と。 「それはどうも」 お世辞であれ、着飾った姿をほめられるのは悪い気分ではなかった。 それから、暫くはお互いに事務的な会話しかしなかった。 出発は何時だから何時間前までに集合しろ、とか、場所はどこそこだから遅れないようにしろ、とか。そんなような内容だ。 こちらを訪ねてきた理由がそれだというのだから、当然といえば当然だが。 一人一人を訪ねてこんな事をしているのかと訊けば、「当然」と、即座に返事が返ってきた。「仕事だから」と続けたが、もしかしたら、これはこのひとなりに意味のあることなのかもしれない。 一通り説明を受けると、その内容を復唱する。 「間違いありませんか?」 相手が頷くのをみて、ひとまず安堵の息を吐く。 「わかりました」 そう告げると、向こうは何事かを言おうと口を開き――そして、そのまま何も言わずに口を噤んだ。 いつもならばこれでおしまいのはずだ。 伝えるべきことを伝え終わり、言うべきことも済んだら、このひとはさっさとその場から去る。不必要なことはしない。冷たいわけでも何でもなく、それがそのひとの性分とでもいうべきものなのだろう。 敢えてこちらが引き留めればまた違ったことになるのだろうが(何せ、このひとが小さな子供に遊ばれているのは珍しい光景ではないのだから)、今までそれをしたことはなかった。 「どうかしましたか?」 そう問うと、少し躊躇いがちにそのひとは呟いた。 おそらく、ゆっくりと会話をすることができるのはこれが最期だろう、と。 一瞬、何を言われたのかよくわからなかったが、その言葉を反芻し――そして、唐突に理解した。 「そう――……そう、か」 あぁ、そうだ。 此処を出てあの場所へ行くとは、そういうことだ。 忘れていたわけではないけれど、どこかで無意識の内に考えないようにしていたのかもしれない――意図的に、考えたくなかったから。 「ええ、いわれてみれば、そうですね」 寂しくなる。と、そのひとはわらった。 「……」 寂しい。 このひとでもそんなふうに感じることがあるのか。 それこそ、職務上、見送ることは常だろうに。 それが真意か、それとも儀礼的なものなのかは、このひとの言葉からは推し量ることはできなかった。 今、相手はどんな表情をしているのだろうか。 視線を向けるが、あまり普段との違いはないようにみえる。ただ、瞳の色をみることはできなかった。 いつも通りの見慣れた表情――もっとも、向こうはこちらの倍以上生きているのだろうから(人ではない相手に、人間的な年齢の概念が当てはまるのかは甚だ疑問だが)、おいそれと表情から感情を読みとらせるような真似はしないだろう。それは、瞳がみえたからといって変わりはない、きっと。 行くのか、と問われ、反射的に頷いた。 「ええ」 行きたい、と積極的に思ったことはないけれど、ここで否と応えることは何故だかできなかった。義務感、もしくは強迫観念に近いのかもしれない。 行きたい、というよりも、行かなくてはならない。 「行きます」 何故?と、そのひとは訊く。 あの場所に行けば、待っているのは自己の喪失だけだというのに、何故行くのか、と。 「――……」 何も言わないこちらに苦笑を向けると、そのひとは続けた。 自分を自分たらしめているのは、自我だ、と。 他者と自己の区別をすることができるのは、自我があるからであり、これを亡くしたものはすべて混ざり合い、自己は消滅する。 死は、だからこその恐怖なのだ。 自我があるから人は死を恐れる。自分が消えて無くなってしまうことに堪えられない。 真に恐ろしいのは、死ではなく、その先に待っている無なのだ。死は、その無を覗きこむ穴にすぎない。 死によってその穴を落下し、無に陥る――それが恐ろしいのだ、と。 死者は――此処にきた人間は、一度それを経験している。 それなのに、何故? そこまでいうと、はぁ、と小さく息をついた。 何故――もう一度、自己を無くしてしまうようなことをするのだろうか、と訊いているのだろう。 「――……驚きました」 口をついて出たのはそんな言葉だった。 「あの場所に行くことが決まったひとに、あなたはいつも『おめでとう』と言っていたから」 だから、そんなことを考えていただなんて、気付かなかった。 素直に、よろこんでくれているとばかり思っていた。 ――だから、こちらもかなしいとか、寂しいと感じてはいけないと、そう思っていたのに。 「私達に、光になることは至上の幸福だと言っていたのは嘘ですか?」 これは意地の悪い質問だっただろうかとも思ったが、向こうにしてみれば予測済みだったのだろう。こたえは直ぐに返ってきた。 嘘ではない。ただ、それをどう感じるかはひとそれぞれだ。此処の役人として言っていいことと、いけないことがある、と。 「――……私は、死にに行くのではありませんから」 少し迷った末に、口を開く。 「確かに、私は一度死にました。それでも、何故か此処にいる。生きてはいないけれど、一応五体があって、自分の意志を持って行動できている。生きていたときのように常にちらつく死の影に怯える必要はない――……それに……まぁ、とにかく。正直、今のこの状況に満足していないといったら、それは嘘です」 豊かで、安全で。 此処のひとたちだって善人ばかりではないけれども、それでもどこか憎めない――いいひとばかりだ。 これ以上何を望むというのだ。 「それでも、私は人間なんです――いや、死んだ人間です」 此処の住人には――このひとのようにはなれない。 件の彼等のように特別に何か事情があれば別だが、こちらには特に待つ相手も、心残りもない。 「私の肉体は地上で腐ってドロドロのぐちゃぐちゃになっていっているのに、中身だけここでピンピンしているというのは可笑しな話だとは思いませんか」 それでも、此処は好きだった。 今になって、離れがたいと思う程に。 「だから――私は行きます。それはあたりまえのことなんです」 箱庭だ、此処は。 時間はしあわせなまま止まっていて、ぬるま湯のように居心地が良い。 死者のための猶予期間を与えてくれる場所。 「あなたは、自分を自分たらしめているのは、自我だといった。確かに、私は私という自我によって自分を認識しているんです。では、自我はいつ、どこで、どういうふうにうまれるのか」 箱庭は、いつかは出て行かなくてはならない。 「自我は、私が生まれると同時に、私の中に生まれるんです――何もないところから。私の身体は母親の胎内から、母親の卵子と父親の精子をもとに生まれてくるけれど、自我は違う。私の肉体のあらゆるものを基礎にして、私の脳がうみだすんです。何もないところから」 何もないところからうまれたてきたのだから、何もないところへ。 「あるべきところへ還る――これは、あたりまえのことでしょう」 そう。と、短く、そのひとは呟いた。 此処にいてほしいと言っても、行ってしまうのだろうか、と。 「あなたは、とてもやさしい。私をとめることはできないでしょう」 もっと、このひとが利己的で、他人のことを考えないようなひとだったら――成り行き任せで、その場限りの嘘の約束もできたかもしれないけれど。 否、もしそうだったとしたら、そもそもこんな会話をしてなどいないだろう。 「感謝します――あなたたちは……あなたは、私を私として、ひととして扱ってくれた」 もう二度とそんなことはないだろうと思っていたけれど。 「もう一度、私がひとらしいことをできたのは、あなたのおかげです」 ふいに、館内放送が流れる。 どうやら、出発前に何らかのガイダンスを行うらしい。 「――……行かないと」 次に会うのは、それこそ出発直前に、発着ロビーで、だ。そうしたら、それこそ話をしている時間なんてものはない。 最期に伝えるべきことは――伝えたいことは何だろう。 「さようなら……あなたのこれからがしあわせでありますよう」 月並みな言葉しか出てこないことが悔しい。 それでも、精一杯の気持ちをこめて。 「あなたに会えて、よかった――ありがとう」 |
あとがき |