ふっと、一瞬、身体を浮遊感がおそった。
 眠りにつく瞬間――もしくは、目覚める瞬間によく似た感覚。
 二度、三度とゆっくり呼吸をして、瞳を開くと、そこは真っ白な空間だった。周りには何もなく、誰もいない。
 ついさっきまで傍にいた母親も、友達も、彼女を此処へ連れてきた彼も――誰も。
 母親。おかあさん。
 マコは二度、三度と軽く頭を振ると、意識してその単語を思考の中から追い出した。
 わかりきっていたこととはいえ、今その言葉を考えたら泣き出してしまいそうだった。
 辺りを見回して、マコは瞳を歪める。
 目を開けているのもつらくなるような、白。
 この空間には音すらもなかった。無音の世界に耳が痛くなりそうだ。
 そのうちに視界が慣れてきたのか、周りの白が段々と色彩を帯びはじめる。それに伴ってか次第に音も戻ってきた。どうやら音がなかったわけではなく、聴覚が機能していなかったようだ。視界にしてもそうで、周りが白かったわけではなく、ただ一時的に上手く働いていなかった、それだけのようだ。というよりも、今まで五感全てが寝ぼけていたといったほうが正確かもしれない。
 「――来た!やっと来たぞ!!」
 一番始めにきちんと戻ってきたのは音だ。
 慌てたような、安心したような声が耳に飛びこんでくる。
 「よかったなぁ、間に合って!」
 「ギリギリでしたねぇ、本当に」
 ぼやけた焦点が合い始めると、周りの様子もわかってきた。
 壁一面を覆う大きな窓からは星の海がよく見える。リノリウムの床(かどうかはわからないが、マコの知っている材質で一番近いのは病院の床だった)は、忙しなく行き交う人々の足音をよく弾いていた。
 そして、どうやら、マコは傍らにいたひとに手を引かれて歩いていたらしい。その顔には見覚えがあった――友達だ、ピコの。
 頭一つ分程背の高い相手を見上げる。視線が合うと、彼――確か、ピコはメソと呼んでいた――は、ふいと視線をそらしてしまった。
 目の前には知らない男の人が三人。亡くなった父親と同じか、それよりも少し上くらいの歳の男性が二人と、それよりも若い――大学生か、大学を出たばかりくらいのひとが一人。初めて会ったにもかかわらず、彼らはまるで昔からの知り合いであるように、マコに話しかけてくる。
 「こんにちは、マコ。はじめまして。ようこそ霊界空港へ」
 奥の方から変わったデザインの白い服を来た男の人がやってきた。肩の部分が層になった丈の長い上着が、一歩毎にひらひらと翻る。
 彼はマコの目の前までくると、少し屈み、マコと同じ目の高さになるとやわらかく微笑んだ。
 「歓迎しますよ、マコ。あぁ、パスポートを拝見させてくださいね」
 彼は、マコからパスポートを受け取ると手際よく作業を進めていく。
 「あの、どうして……」
 「何か?」
 「……なまえ」
 マコは、まだ名前をいっていない。
 一瞬、彼は驚いたような表情をしたが、すぐに「あぁ!」と、納得したようだ。
 「君のことなら、大体知っていますよ。ピコが、教えてくれました。『おかあさん思いのやさしい子、マコ』と、ね」
 「そう……ですか」
 「いい友達をもったね」
 その言葉にマコは肯いた。
 「本当は、もっとゆっくり色々とお話ししたいんですが、何分時間がありません」
 至極残念そうに彼はそういうと、マコに真っ白なパスポートを手渡す。
 「搭乗手続きは全て済んでいます。何か、わからないことや困ったことがあったら、同じ便に乗る老夫婦……おじいさんとおばあさんに訊いてください。御夫婦は一組だけなのですぐにわかりますよ――二人とも、あなたに会うのを楽しみにしています」
 「はい」
 「良いお返事です。じゃあ、右手の通路を真っ直ぐ行って――搭乗口は進んで行けばわかりますよ。大丈夫、このひとも一緒ですから」
 彼はそう言うとメソを指した。
 「あの」
 「はい?」
 「……時間はかかりますか?」
 光の国まではどのくらいですか。
 死んでいるのだから、どれくらい時間がかかったっていいのかもしれないけれど(そもそも、生きていたときと同じような時間の流れがあるのかもわからないが)。
 それでも、時間がかかっては困るという気がした。
 時間がかかると、約束を破ってしまったような気になる。
 彼は困ったように微笑い、応えた。
 「残念ながら、僕は光の国に行ったことがないのでわかりません。でも、そんなにはかからないと思いますよ。いつまでたっても光の国につかない、んて話は聞いたことないですから」
 「そうですか……」
 「大丈夫。きっと、すぐにつきますよ」
 マコを安心させるようにもう一度にっこりと笑うと、彼は立ち上がり、マコをゲートの方へと促した。
 そのゲートは白を基調に装飾されていて、反対側にある黒いゲートとは対照的だった。ゲートの先に続いている通路も明るい。
 ここを進んでいけばよい。それだけだ。
 ここを、くぐれば、すぐに――
 「待って!」
 通路へと一歩踏みだそうとした瞬間、マコはぐっと強い力で引き戻された。
 慌てて振り返れば、二の腕を誰かに引かれている――メソだ。
 「?」
 不思議そうに、黒い大きな瞳でマコはメソを見上げる。
 メソは、先程のように視線をそらしてうつむいた。
 腕を掴む力が強くなる。
 何かを警戒しているような――怯えているかのようだった。何に対してかはわからなかったけれど。
 「あの、」
 「ぼくは」
 マコは反射的に口を噤んだ。
 マコの言葉に重なるようにメソが口を開く。
 聞き取れないくらいに小さく。微かな声で。
 「――……ぼくは、それを……とっ、たんだ」
 「え?」
 一瞬、何を言われたのかがわからす、思わず聞き返してしまう。
 それに対し、今度ははっきりとしたこたえがかえってきた。
 「ぼくは、君のパスポートを盗んだ」
 どういうことだろう、と白い服の彼を見る。
 マコは彼を問い詰めるように、今歩いた距離を引き返した。
 彼は軽く溜め息をつくと、マコに告げる。
 「君のパスポートは再発行されたものだ――彼が盗んで――色々あったけれど、ピコのおかげで再発行できた」
 彼はそれ以上何も言わなかった。
 事実をそのまま伝えた、それだけのようだ。ただそれだけのことなのに、それはとても残酷なことのようだった。
 それは、つまり――
 また、助けられたのだ、あの子に。
 マコは周りを見回した。白い服の彼も、三人組のひと達も、皆、何も言わない。
 周りのひと達はただ黙って、マコを見つめていた。
 皆、待っているのだ――マコが、何か返すのを。
 どう、マコがこたえるのか、を。
 僅かに首をかしげると、マコはゆっくりと口を開いた。
 「――どうしても、欲しいものだったんでしょう?」
 一語一語、自ら確認するかのように。
 その言葉にメソは肯いた。
 それを見てマコは「そう」と、呟く。
 少しだけ考えると、マコは再び言葉を選んで話しだした。
 「――わたしも、どうしても欲しいものがありました」
 生きている身体。
 しあわせな時間。
 「だから、同じですよ。わたしも、あなたも」
 もし、あの子が現れなかったら――本当に約束を守っただろうか。
 いかなくては、とわかっていながらも、心のどこかで期待していたかもしれない。
 「あなたは、一度わたしのパスポートをとった」
 あの子と入れ替わった。
 あのまま、時間が止まってしまえば――もしかしたら、と思った。
 「でも、パスポートはもう一度発行された」
 でも、あの子は戻ってきた――約束を、破らずにすんだ。
 「それでも、あなたは苦しんでいる」
 一度でも、もしかしたら、と考えたことを恥じている。
 「それで、いいんじゃないかなと思います」
 たぶん、これはずっと消えない。
 結局、そういうことだ。
 誰かを踏みつけない限り、願いを叶えることなんてできない。
 たとえ、踏みつけずに済んだとしても、それは本来ならば踏みつけることになるはずだったかもしれない相手が自ら進んで踏み台になってくれた――もしくは、お互いに揃って全く違う誰かを蹴落としてきたのかもしれない。そうでなければ、踏みつけられようが蹴落とされようが、それをそう思わないかだ――あの子のように。
 どんな些細なことだって、それを成し遂げるには誰かの力が必要で、自分一人でできることなんてない。
 無理矢理成し遂げようとしたら、それ相応のものが必要になる。
 「忘れなければ――いいんじゃないでしょうか」
 大切なのは、踏みつけた相手を、知らず知らずのうちに誰かの上に立っているということを忘れないことだ、きっと。
 ずっと、自分が何をしたかを忘れないように。
 誰かを犠牲にして、誰かに助けられてきたことを。
 「いきましょう」と、マコは微笑んだ。
 メソもそれに微笑い返す――もっとも、それはとてもぎこちないものだったけれども。
 もう一度、辺りを見回し、マコは頭を下げる。
 たぶん、知らないところでこのひと達もマコのために手を尽くしてくれたのだろう。きっと、だから、あんなにも親しげだったのだ。
 一人一人とゆっくり言葉を交わしたいけれど、時間はそれを許してはくれなさそうだった。
 「ありがとうございました」
 代わりに、言い尽くせないほどの気持ちをその言葉にこめる。
 「よかったね」
 「?」
 「君も――僕達も、あの子に会えて」
 白い服を着た彼の言葉に、マコは「はい」と、これ以上ないくらいの笑顔でこたえた。
 時間がないから、と急ぎながらも、皆に見送られてゲートをくぐる。
 ゲートのすぐ傍には誰かが立っていた。
 白い服の彼と反対に、真っ黒な服を着たひとだ。
そのひとは、メソを一瞥し、そしてマコを観察するように上から下まで眺める。
 「マコ?」
 「はい」
 マコが返事をしても、そのひとは「そう」と言ったきりで、それ以上は何も言わなかった。代わりに、メソに向かって「あんた、ちゃんとお姫様のエスコートくらいするのよ」と言う。
 「華はトリって決まってるんだからね」
 「わかってます」
 「背筋伸ばして!」
 「はい!」
 マコ。と、もう一度そのひとは言った。
 「あなたにも――会えてよかった」
 ほんの、一瞬。
 長い時間の中で、つかの間の時間を共有しただけだけれども。
 マコはもう一度、今までいた場所を振り返り、そこにいるひと達の顔をひとりひとり見渡した。せめて、脳に少しでも焼き付けるように。
 そして、隣のメソを見上げると、小さく頷いて通路に一歩踏み出した。







あとがき