霊界に昼夜の区別があるのかは疑わしいが、強いて地上時間に換算するならば夕刻過ぎ。昼下がりというには遅すぎ、かといって終業時間には早すぎる。そんな時間のことだった。
 発着ロビーへ入ったエンジェルは、おや。と思った。
 仕事場付近が無人だったからだ。ほんの少し前に席を外したときは、いつものようにやる気があるんだかないんだかよくわからない相方が、驚異的な早さで書類を処理していたというのに(もっとも、エンジェルの書類処理能力が著しく低いという説もあるが)。
 相変わらず人気のないロビーを見渡して、ふと視線を止める。
 そのひとは窓から外をみていた。
 何のことはない、ただそれだけだ。
 それなのに、一瞬、誰もいないように感じたのは、その横顔が普段見慣れたそのひとの表情とは全くの別人に見えたからだろうか。
 「――何か、おもしろいものでもありましたか?」
 給湯室から失敬してきた魔法瓶でお茶を淹れると、エンジェルは無言でそれを差し出した。
 「あんた、お茶汲みまでやるの?」
 「はぁ。給湯室行ったら『セルフサービスです』って言われたんで」
 霊界空港の女性職員は強い。おまけに美人揃いだ。強くて綺麗な女性には逆らわないほうがいいに決まっている。後が怖い。
 「そう」と、半ば呆れたような諦めたような返事をすると、デビルはマグを受け取り、口をつけた。
 「それで?」
 エンジェルは訊いた。
 「何があったんですか?」
 「何って?」
 「外です」
 「別に何も」
 「そうですか?カバっぽい生命体が宇宙遊泳でもしてるのかと思いましたが」
 「いくらなんでもそんなことあるわけないでしょうが」
 「いえ、ボクも自分で言ってて非常識だとは思うんですけど。そうでもないと、あなたが窓の外なんか眺めてるのが信じられなくて」
 「アタシが外見てちゃいけないって?」
 「そうはいってませんけど。何か、そぐわないなぁ、と」
 「――……あんた、ひとのことどういう眼で見てるのよ?」
 「概ねこーんなです」
 と、エンジェルは目尻をにゅっと横に引っ張った。ただでさえ柔和な顔立ちが、一層柔らかく――を通りこして滑稽になる。
 「あぁ、そう。よぉぉおくわかったわ」
 「え、わかってくれたんですか。嬉しいなぁ」
 「あんたとまともな会話をしようとしたアタシが馬鹿だったってことがよくわかった」
 「もしかしなくてもバカにされてませんか、ボク」
 「さぁ?どうかしら」
 と、わらうと、デビルは席に戻り、作業を再開した。
 エンジェルは何とはなしにその様子を傍目に見ながら、ゆっくりとマグを傾けた。自分で淹れておいて何だが、あまり美味しくはない。 やはり、慣れないことはするものではないものだ。今度からは袖の下を渡してでも女性職員に淹れて貰った方が良いだろう。
 マグの向こうで、デビルは資料を元に地球の模型に数値を示していく。それは徐々に柱グラフになった。柱自身にも色がついていて、背の低い柱は青。背が高くなるにつれて青から黄へ、黄から赤へと変色していく。グラフが示している数は勿論死者の数だ。青の部分は死者が少なく、赤い部分では多い。
 相変わらず、偏りがある。
 見慣れた図だが、やはりあまり気分のよいものではなかった。最近導入した機器で立体映像としてみると、特に。もっとも、内容に反して、グラデーションに輝く虚像は見ていて飽きない不思議な魅力をもっていた。
 「ねぇ、それ」
 とって。と、デビルはエンジェルのすぐ近くにある資料を指した。言われるままに紙の束を渡す。
 手を離れる瞬間に表紙に視線を走らせると、『地域別死因と年齢及び男女比についての統計』と走り書きがあった。
 眉一つ動かさずに、デビルは資料に目を通す。単調な手つきで一通り頁を繰り終わると、机上へと資料を放った。
 ぱさり、と渇いた音を立てて紙の束が落ちる。
 「これで全部?」
 「は?え……――えぇ、今日の分はそれでおしまいです」
 ぼんやりしていたため、つい反応が遅れてしまった。内心、またそれに対して「ぼけーっとしてるんじゃないの!」と、怒号が飛んでくることを覚悟したのだが、それはなかった。予想に反して「そう」と極めてシンプルな返事が返ってきただけだ。そしてまた、デビルは何事もなかったかのように作業を進めていく。
 「あの」
 「何?」
 「本当に何もなかったんですか?カエルっぽい生命体とかウマっぽい生命体とかいませんでしたか?」
 「だからそんなのいるわけないっていってるでしょう」
 はあぁぁ。と、デビルはこれ以上ないというくらい深い溜め息をつく。
 「あんた、さっきから喧嘩売ってるの?」
 「まさか。心配してるんです、一応」
 このひとがあまり干渉されることが好きではないというのは知っているけれど。
 不気味なものは不気味だった。普段が普段なので、おとなしいデビルなんぞというものは不気味以外なにものでもない。
 心配。
 と、その言葉を反芻すると、デビルはわらう。
 「あんたがいうと胡散臭いことこの上ない単語ね」
 「そうでしょうか?」
 「『心配』の語意が泣くわよ」
 「はぁ」
 また、だ。
 「あんたに心配されるようじゃアタシもおしまいだわね」
 それはいつも通りの揶揄と皮肉が入り混じった表情だったけれど――いつもとは全く異質なもので。
 見知らぬ他人と会話をしているような、そんな気分だった。
 触れたところで音がするわけではないが、まるでそこから鈴を転がすような音でもするとでもいうように、デビルは立体映像を指先ではじく。
 指先は虚像に触れることはなく、それをすり抜けて空を叩くだけだけれども。
 「これ……まぁ、綺麗よね」
 「は?そりゃあ、一応ホロですし、本部がヴィジュアル重視で作った最新技術の結晶ですから」
 「でも、これが何なのか知ってるでしょう?どんなに綺麗に見えたって、これが表してるのは死人の数。あんたがどんなにデスクワークが苦手だからって、これの色が変わる毎に何人死んでるかわからないわけないわよね」
 「……」
 いとおしそうにそれに触れる。
 「――馬鹿だなって思った。それだけ」
 まるで、とても大切なものを扱うかのように。
 「いつどうなるかなんて何も保障はないのに、明日があるって思えるなんてどうかしてる」
 すべてがすべてそうではないけれど。と、付け加える。
 勿論、今日明日はおろか、今この瞬間――数瞬後がわからない生き方をしている人間だっているけれど。
 「いなくなってから会いたいって思ったって遅いのよ」
 「それは、ボクらだからいえるセリフでは?」
 根本的に、自分と無関係な死はただの事象だ。全く知らない誰かが死んだところで、それを身近に感じる人間はいないだろう。親しい人間が死んで――いなくなってから会いたいと思って、初めて気付くのだ。
 自分達のように常に全ての死者の数を把握して、その先逝きを見送る身でないのだから、気付けというほうが酷だろう。
 「そうよ。だから、馬鹿だっていったの」
 「は?」
 「知ってて、気付かないのは――気付かないふりをするのは、最大級の大馬鹿者だと思わない?」
 と、哂う。
 「羨ましいわよ、あんたが」
 「ボクが?」
 「そう」
 「あまり訊きたくありませんが、念のため訊いておきます。どの辺が?」
 「そうね、あんたって脳みそと口が直結してそうなんだもの。とりあえず思いついたことは深く考えずに喋って、やってみる、みたいな。その辺?」
 「ええと、それは……ボクが言いたいこと全てぽんぽん言いまくってると仰りたいんでしょーか?」
 「ありていにいえば」
 「誉めてるんですか?貶してるんですか?」
 「誉めつつ貶してるの」
 「全然嬉しくないです……」
 生殺しだー。と、エンジェルは呟いた。
 「何か、色々誤解があるような気がします。ボクだって言いたいこと全てポンポン言ってるわけじゃないですよ」
 「そう?じゃあ、99%くらい?」
 「あんまし変わらないじゃないですか」
 「1%の差って大きいわよー。いいじゃない、悪いことばっかしじゃないんだし」
 「――……じゃあ、せっかくお誉めいただいたんで、言いたいこと言わせてもらいます」
 ちっとも誉められた気はしないが、この際だ。
 「良かったですね」
 「主語をいいなさい。ついでに、もう少し修飾語も」
 「あなたが、ですよ」
 「――」
 「他人を想うことは難しいもんです。それはよくご存知でしょう?――まして、いなくなった相手なんて、ね。どんなかたちであれ、他人を想えるというのはとてもしあわせだと思いますよ――そのくらいのことができるひとに会えたんですから」
 「……屁理屈?」
 「いいえ。説教です」
 「――……本当に、脳みそと口が直結してるみたいね」
 「そのようです」
 お茶、冷めてしまいましたね。
 と、エンジェルは言った。
 「淹れなおします」
 「待った」
 と、デビルは茶葉を入れ替えようとするエンジェルを制止した。
 「あんたが淹れたお茶なんて飲めたもんじゃなかったわよ」
 「あの、あなたの方がよっぽど脳みそと口が直結してるような気がするんですけど」
 「うるさい。いいから、あんたは座ってなさい」
 ひどいなー。と、抗議をするエンジェルをよそに、デビルは慣れた手付きで茶葉を処分し、入れ替える。
 「まぁ、そうね――お茶一杯分くらいの価値はある説教だったわね」







あとがき