月宵 |
月の綺麗な晩だった。 北に近いこの地方の夏は短い。八月も終わりに近づくと朝晩は急に冷え込むようになる。 晩夏、暮夏――否、向秋というほうがいいだろうか。短い夏は余韻を残さず過ぎ去って、瞬く間に秋が訪れる。鮮やかな緑色の水田が黄金に輝く稲穂の海になる日もすぐそこだ。 夜風が運んでくる空気はひんやりと頬を撫でていく。 紫紺の闇は辺りをやさしく包みこみ、闇夜に浮かぶ月は十五夜を何日か過ぎ、ほんの少し欠けてきいる。次に満月が姿を見せるときには、もう菊の節句も過ぎて月見の季節になっているだろう。 戯れに触れていた琴の弦がふるえる。 音を出すつもりはなかったが、加減を間違えてしまったようだ。 「あれ、ヒノデロひとり?」 縁側からひょこっと顔を出すなり、ユタはそういった。 「こんばんは、ユタ」 「こんばんは。みんなは?」 座敷の中をぐるりと見渡し、首を傾げる。 皆がどこへ向かったかを思い出し、ヒノデロは笑みを漏らした。 「あの娘のところ」 「あのこ……?あぁ、さよちゃんか」 ユタもつられるように笑う――もっとも、半ば呆れたようにだけれども。 「じきに戻ってくるわいな」 「そうだね」 あれ?と、ユタはヒノデロの手元を指した。 「それ、何?」 不思議そうに訊く。 「――月琴」 と、ヒノデロはこたえた。 今はこれの名前も知らないものか、と内心で苦笑する。 「押入の奥にあったからちょいと借りているのよ」 仕方がない。それだけの時間が経ってしまったのだ。 手元の楽器が最後に美しく奏でられたのがいつなのか、それはもうわからない。 「ひけるの?」 「すこしだけ」 「よかったらひいてみてくれないかな?きいてみたいんだ」 「きいても、おもしろくもなんともないもんよ」 「全然。なんでもいいんだ――ヒノデロの好きな曲ひいて」 曲。 そんなものは知らない。 遊び女達が練習しているのを傍で聴きながら、見よう見真似でいつのまにか覚えただけだから。断片的な旋律は曲を構成することはない。彼女達が通して曲を弾くときは決まっていて、そこに居合わせることはなかった。 「あたいも、あんまりよくは知らないけれど」 ヒノデロは苦笑し、記憶を辿りながら、弦をはじいた。 並んで縁側に腰掛けながら、月を見上げる。 ユタに請われるままに、ヒノデロは弦の上に指を置いた。 「ねぇ、ヒノデロ」 「あいな?」 「赤ちゃんって、まわりのことわかるのかな?」 「……どうして?」 「さよちゃんの弟がね、」 周りに何があるのか。 周りの人間がどんな人間か。 今何を言ったか。 何をしたか。 そういうことがどうやらわかっているようだ、とユタは言った。 「かまってやったり、あやしてやるとすごく嬉しそうに笑うんだよ。それで、怒ったり、ちょっかいだしたりするとすぐに泣くんだ。赤ちゃんってすごいね。ほとんど寝てるし、まだしゃべれないし、大きくなったら全部忘れちゃうのにさぁ――わかってるんだよ」 「――そう」 細く、長い指が的確に弦の上を滑る。 「ぼくもそうだったのかなぁ」 袂から覗いた白い腕は爪を握り込んで、確実にそれをはじいていく。 「ヒノデロは?」 ――変節。 「ヒノデロもそうだったんでしょう?」 ヒノデロはその問いにはこたえない。 ただ婉然と微笑むだけだ。 「だから、それもひけるんだよね?」 薄く紅を挿した口唇が丸い弧を描く。 「――さぁ、」 開いた口の中からは紅よりも赫い舌が覗き、次の言葉を音にすべく、まるで別の生き物のように滑らかに動いた。 「どうだったかしら」 キンっ、と一際高い音が響く。 確かに、赤子は全てわかっているのだろう。 周りの善意も悪意も。 自分の生まれた環境も。 自分の生命が、後どれくらいかということも。 「ヒノデロ?」 ヒノデロは相変わらず笑みを浮かべたまま、ユタを見つめる。 ヒノデロの白い肌に長い黒髪はよく映えた。その白い顔が月の光を反射して一層色彩を失ったようになる。周りの景色からも色が無くなってしまったかのように。色を亡くした世界の中で、目元と口唇に挿した紅だけが艶やかだ。 「あの、」 仕方がない。 それでしか片付けられないものだったけれど。 それでも、生きてみたかった。 生きても辛いことしかないのかもしれないけれど、それでも。 生きて、歳をとりたかった。 それができないなら、せめて―― 「どうしたの?」 もっとも、両方とも叶わないことはわかりきっている。 だから、せめて外見だけでも歳をとりたかった。 繕うように変えた姿は誰のものかもわからない。 生きていたらこうなったのかもしれないし、無意識にほんの一瞬の生で視た誰かを真似たのかもしれない――母親に似ていれば嬉しいが、母親を視た覚えがないのでわからなかった。 「なあに?」 どちらにしろ、過ぎたことだ。 時とともにこの音が廃れたように、全ての事象は移ろい行く。 何をいっても今更だ。 「――……なんでもない」 「そう」 時間とは、そういうものだ。 この子に死にたがっていたころの面影は既にない。 願わくは―― 「あのさ、ヒノデロ」 「ユタちゃん、ユタちゃん……!」 ユタが口を開くと同時に、廊下の奥から年配の女性の声がした。 声は慌ただしい足音とともにこちらへと向かってくる。 「ユタちゃん、お母さんがこれを渡してくれって――」 「おたねさん……」 ユタは“しまった”とでもいうように口を噤み、咄嗟にヒノデロを背にして立ち上がる。 「まぁ、ユタちゃん!」 「おたねさん、これは、」 「そんなもの引っ張り出してきて一体どうしたっていうんです」 え? と、ユタは不審そうに訊き返し、後ろを振り返る。 そこにはヒノデロの姿は既になく。 ただ、弦の切れた月琴だけが月光に照らされて、静かに影をつくりだしていた。 |
たわごと。 |