ひさかたの |
分教所の図書室は校舎の一階部分にあった。 校庭に面して明るく広々とした室内には今は生徒は一人もいない。 夏休みの校舎は静まり返っていた。 蝉の鳴く声がうるさいくらいに響く。 もとから中学生・小学生と併せて二人の教員でまかなえるくらいの人数しか生徒がいないのだから、普段から静かな環境ではあるのだけれど。 夏休みというのはまたそれとは別だ。 人気のない校舎は閑散としていて、このまま永遠に誰も此処にはこないのだろうかという気になってくる。 人知れず、ただ朽ちていく――誰もが忘れてしまった場所。 もっとも、実際にはそんなことはあるはずもない。 今だってまばらではあるがひとはやってくるし、夏休みが明ければまた子供達の声が返ってくるだろう。 しかし、田舎の過疎は深刻で、それはこの村も例外ではない。 此処がいずれそうなるだろうということは明らかだった。5年後か10年後かそれとももっと先か――それはわからないけれど。 ガラガラっ、と引き戸になっている扉が勢いよく開いた。 「ダンジャ?」 開いた扉の向こうには男の子がいた。 お世辞にも大きいとはいえない身体に重そうな本を何冊も抱えている。どうやら戸は足で開けたようだ。 「ユタ」 ダンジャは手元の本から視線をあげてこたえる。 「ひとり?みんなは?」 長机の上に持ってきた本を積み上げながら、ユタは訊いた。 ダンジャは利き手で少し離れた一角を指す。その先には、ヒノデロとモンゼがいた。距離があるので何を話しているのかはわからないが、大方、ヒノデロがモンゼに絵本でも読み聞かせているのだろう。 「ペドロとゴンゾは?」 「兄貴達は外だ」 と、今度は窓の外をさす。 「外?――あぁ、小夜ちゃんか」 ユタはそういいながら、机の上に積み上げた本を手際よく分類し始めた。 「ユタはどうした?」 「日直――お当番ってやつ?夏休みの間に二回くらい学校にきて色々やらなきゃいけないんだ。飼育小屋掃除したり、花壇の手入れしたり」 「本の整理したり?」 「そう。今日はぼくと小夜ちゃんの番。君達は――……って、きくだけ野暮だよね」 「あぁ」 ダンジャは呆れたように苦笑した。 いつものように、ペドロが小夜子のストーキング……もとい、小夜子を遠目に見守っていたら分教所へと行くところだったようで、必然的に全員その後についてきてしまった。それだけだ。 「好きだよねぇ、本当に」 「だから、ちょっとは二人きりにしてやらねぇとな」 「あれじゃあ二人きりっていわないんじゃないかな?」 ユタは窓の外を見ながら呟く。 窓の外では、小夜子が校庭の花壇に水をまいていた。その少し離れたところにはペドロがいる。 そして、さらにそれを離れて見ているゴンゾがいた。三者の位置はそれぞれ微妙に離れていたが、二人きりとはとてもではないがいい難い状況だ。隠れているつもりで丸見えなゴンゾが何だかおかしい。 「兄貴を心配する奴の気持ちも汲まねぇとな」 「たしかにね」 笑いながらユタは窓の外を眺めている。 ダンジャも並んで校庭へと視線をむける。そこには先程から変わらない光景が広がっていた。 「あ」 「どうした?」 「クルミ先生」 ユタが指した校庭の一角は畑になっている。そこに重そうな農作業道具を抱えた教員が一人向かっていた。 南中を少しすぎたとはいえ、夏の太陽はまだまだ元気だ。 外では蝉がここぞとばかりに鳴く。 あの教員も、この暑い中、よくやるものだ。 「何するんだろ?」 「手入れだろう。畑はそうしないとすぐに駄目になるからな」 「手入れ?」 「そうだ。ただ水撒いて肥料やればえぇってもんでもねぇ。ええ作物を育てたかったら、きちんと雑草を刈りとって、余分なものは間引いてやらねぇとな」 「ふうん」 ユタは上の空のような返事をした。 「へんなの」 何が?と、ダンジャが訊くと、ユタはゆっくりと――不満そうに口を開く。 「『いいですか、皆さん。地球の上で生きているのは私達人間だけではありません。動物も植物もみんなそれぞれ同じ生命を持って生きているんです。生命はかけがえのないとても大切なものです。決して粗末にしてはいけません。だから、皆さんもむやみやたらに動物をいじめたり、植物を乱暴に扱ったりしてはいけませんよ』――っていってたのにさぁ。いった本人が雑草引っこ抜いてちゃ説得力ないよ」 そういって口を尖らせるユタをみて、ダンジャは声を立てて笑った。 眉間におもいきり皺を寄せて、至極真面目にそのときの教員の真似をする様子が可笑しい。 「何がおかしいのさ?」 「いや。おめえ、あの先生の真似上手なんだな」 「――あんまり嬉しくないよ、それ」 「わるいわるい」 ダンジャは笑いを噛み殺しながら続ける。 「えぇ奴だな、ユタは」 「――」 「可哀想だと思ったんだろう?」 「別に……そういうんじゃないけど」 口ごもる様子は、それが図星だといったようなものだった。 ふいと視線をそらしてしまったユタに、ダンジャは微笑みを向ける。 「だがな、ユタ。おめえは人間であって、動物でも植物でもねぇ」 「?」 「人間にとって一番大事なのは人間の生命なんだ」 「どういうこと?」 ユタは不思議そうに訊いた。 「そうさなぁ」 ダンジャはどう話そうか、とでもいったように上を仰ぐ。 「おめえにとって、おめえのおっ母や小夜ちゃんやらっていうのはかけがえのないもんだろう?」 「あたりまえだよ」 「でも、生命はなんでも大切なんだろう?」 「――……うん」 「なら、そこの道路で小夜ちゃんと猫が車に轢かれそうになってたらどっちを助ける?」 「!?」 「そういうことだ」 ユタはゆっくりと深く呼吸をすると、「いじわる」と呟いた。 「そうだな。意地悪だな」 ダンジャはこたえる。 「たがな、仕方ないことだ。人間にとってかけがえのないもんは人間だけなんだ。他のものは大概代えがきくが、人間だけはそうはいかねぇ」 「……」 「でもな、きっと他の動物やら何やらにすれば、自分達と同じものが一番大事に決まってるんだ」 だから、仕方ない。 と、ダンジャは続けた。 「もっといってしまえば、すべての生命は自分が一番――何よりも大事なんだ」 自分がなくなってしまったら意味がない。 すべての生命の根底には自己保全の機能が備わっている。それに抗うことはそのまま死を意味することになる。 それのためにはどんな理屈も無意味だし、それを責められるものはいない。 その結果が―― 「でも」 ユタはぽつんといった。 「それだけじゃないよ」 その言葉がどれだけ意味をもっているのか。 おそらくこの少年は気付いていないだろう。 ダンジャは窓の外の厳しい陽射しに目を細め、「あぁ」と呟く。 「ユタ!」 ふいに声がし、それとともに小さな身体がこちらに飛びこんできた。 「モンゼ……」 「ユタ、外行こう、外!遊ぼう!」 「外?君、ヒノデロと本読んでたんじゃないの?」 先程までモンゼがいた場所をみやれば、ヒノデロが書架に読んでいた本を戻して、こちらにやってくるところだった。 「ヒノデロの読んでくれる本、全部恐くて趣味悪いんだおん!」 「まぁ、ひどい!そんなことないわよ!」 「何読んであげたの?」 「『ねずの木』と『ホレおばさん』」 「おめえ、それ本当に悪趣味だぞ」 「あたいはきちんと後学のことも考えてねぇ……!」 そんなもの考えなくていいからもっと普通のものを読んでやれ。 と、思ったが、ダンジャは敢えて口にはださなかった。その代わりに「ユタ」と呼ぶ。 「モンゼと外行って、兄貴達のこと見張っててくれ」 「でも」 「俺達はもう少しここにいる――大丈夫、そこの本の整理はしといてやるから」 ダンジャの言葉に頷くと、ユタはモンゼの手をとって図書室を後にした。 パタパタと小さな足音が遠ざかっていく。 足音が完全に消え去ると、ヒノデロが口を開いた。 「何のおはなしをなさっていたの?」 「ん?」 ダンジャは少し考えるように首を傾げる。 「――友達はええもんだって話かな」 「まぁ」 軽やかな笑い声が図書室に響く。 誰にも聴こえない笑い声を、無人の校舎がただ静かに受けとめていた。 |
たわごと。 |