「傾斜ナシ」
 滝川の声が廊下に響いた。
 「ガスの類も特に出てないみたいですね」
 「室温13.3℃っと……OK、ありがとう」
 麻衣は温度計に表示された数字とともに、滝川とジョンに言われた数値も測量用紙に書き込む。
 「特に異常はないみたいだよねぇ……」
 傾斜、空気、温度ともに正常値の範囲内だ。
 昨夜のデータを確認したところ、特に異常は認められなかった。強いていえば、やはりこの高校棟3号館3階廊下の温度が若干低かったが、それでも一応正常値の範囲内だ。特に、冬にさしかかったこの頃は、少しくらい温度が低かったところで不思議なことではない。
 「やっぱり、今回って何もないのかなぁ」
 「何かあって欲しいみたいじゃないか、嬢ちゃん」
 「そんなんじゃないけど……」
 麻衣は口篭る。何もないことが本当は一番いいことだとわかってはいるのだけれど。
 「ナルに啖呵切って無理やり依頼受けちゃったから……何もなかったら後々のことが恐すぎる。」
 流水のように静かに絶対零度で怒り狂うナルが目に浮かぶ。
 『谷山さん、結局のところ、今回何の成果もなかったわけですが、この件に関して費やしたぼくの貴重な時間を一体どうしてくださるおつもりでしょうか……』
 とか何とか言われたら、土下座の一つや二つ簡単にしてしまいそうだ。
 「ま、まぁ、ナル坊のことだから、失敗することも考慮にいれてあるだろうから……大丈夫だろう、多分」
 答える滝川も今一つ自信がないようだ。
 「うわぁぁぁんっ、どうしようっ!今月給料抜きかもしれない!!」
 「いや、それはない!きっと!!」
 「渋谷さんだって人の子ですから!」
 「あたしはナルが爬虫類の子でも驚かないよぉ……」
 切ったら緑色の血が流れてきても、それがナルなら驚かない。
 何故なら、それがナルだからだ。
 「あ、と……ところで、麻衣さん」
 ジョンがふと思いついたように(もしかしたら、話題を変えようとしてくれたのかもしれない)、言った。
 「あの、渋谷さんが『今回は無駄足かもしれない』っていわはったんですけど、どういうことでしょうか?――何もないときは何もないで、いつも“無駄”とはいわなかった気がします」
 そういえば、朝はなんだかんだで慌しくて、ジョンには未だ細かい説明はしていなかった。
 それは昨日からナルが懸念していたことで、今の麻衣の悩みにもつながるのだが。
 「ええと、ね……」
 昨夜遅くにナルが言ったことを思い返すように、ゆっくりと、麻衣は口を開いた。
 「『データが少なすぎる』んだって。今までは何もないときなら何もないなりのデータがあったでしょう、ほら、ウチの学校の地盤沈下とか。だけど、今回は本当に何もないかもしれないって。でも、それって、“何もない”ってことを証明するためのデータもないってことでしょう?だから、ないものをいくら探してもないんだから無駄って……そういうことみたい」
 「なるほど」
 「あたしには難しくてよくわからないんだけどね」
 実際、話していて麻衣自身が今一内容を理解できていない。一つの物事の周りばかりを説明されて、肝心の核を説明されていない。初めて玉葱の皮を剥いたときの気持ちに似ている。皮だと思って剥いていたら、いつのまにか全部無くなっていた。肝心の中身が全く見えてこない。
 “何もない”ということを、何故ナルが嫌がるのか、理解できない。何もないなら何もないでそう言ってしまえばいいのに。
 「どうして、かなぁ」
 「多分“何でもありません”じゃ依頼人が納得しないからだろう」
 「どういうこと?」
 「今回、2月以内に同じ場所で3人倒れた。結果待ちだが特に健康を害していた様子はない。校舎に欠陥でも見つかればいいが、そうじゃなければ原因不明ってことになる。そこで霊の存在を疑うわけだが、それで霊が本当にいるなら、機材が反応するだろう。だが、機材の反応は今のところナシ。まぁ、初日から反応をする霊の方が珍しいといえば珍しいんだが、今までの傾向から行けば逆だな。人間に危害を加えられるような霊になればなるほど、初日から反応してくる。まぁ、このあたりのことは真砂子が来れば概ねはっきりするだろう。仮に霊がいたならば、除霊するなり、最悪美山邸のときみたいに焼いちまうなりなんとでもなる。霊じゃなくてポルターガイストやら呪詛の場合もナル坊なら大抵のことは解決できるだろう。でも、もし、霊がいない場合は?俺達にできるのは気休めの除霊ごっこ程度だろうな。それで依頼人が納得するか?おまえの学校だって、原因がわかっている事故でさえ色々なうわさが立ったんだろう?原因不明の今回なんてどうなるか……だから、霊なり何なりが存在するか、校舎に欠陥でもあってくれたほうが楽なんだよ。って、ナルは言いたいんだと思うぞ」
 「でも、調べてみて悪いことがなかったってわかればすっきりしない?」
 「だーかーら」
 滝川は物分りの悪い子供に言い聞かせるようにもう一度言った。
 「ここまでくると霊はいてくれたほうがいいんだよ。そうすれば、依頼人は納得する。むしろ、依頼人にとっては、霊はいてくれないとこまるんだ。霊でなくても何でもいい。とにかく、騒ぎの発端となるような“何か”が!じゃないと安心できないんだ」
 「えぇと、つまり……
 患者:頭が痛いんです。
 医者:じゃぁ、検査してみましょう――どこも悪くないですね
 患者:そんなことありません。頭が痛いんです
 ってこと?」
 「そう――ナルは言っただろう。自分はデータの収集をしてるって。だから、データがないことは説明できない。さらにいうと、ナルの理論からすれば、“データがない”ということも、データの中から裏付けないといけないんだろう、きっと」
 そうすると、“ない”ものを照明することはできないから無駄、となる。
 つくづく難儀な商売である。
 「――“ない”っていってるんだから“ない”、じゃダメなのかなぁ」
 「依頼人とナルが納得すればいいんじゃねぇの」
 どう思う?と、麻衣はジョンに視線を向ける。
 「――難しい、と思います、きっと」
 ジョンは少し思案するように言った。
 「人間は“ない”ものに対しての恐怖が強すぎますから。目に見える恐怖には打ち勝つことができても、目に見えない恐怖に勝つことはなかなかできません」
 「でも、霊だって視えないじゃない?普通の人には」
 実際、この面子の中でもきちんと霊を見ることができるのは真砂子だけだ。
 「さいですね。それでも、滝川さんのいうとおり、何もないよりは霊という存在のほうがまだはっきりしたものですから。そのほうがマシなんと違いますか?」
 あっさりと言われて麻衣は面喰った。麻衣にしてみれば、今までの経験上霊の方が余程恐いのだが。
 「ジョンは霊が恐くないの?」
 一瞬、何を言われたか解らないというように、ジョンは二度、三度と瞬きをし、苦笑する。
 「こわいですよ。今迄も、皆さんと一緒に何度も危ない目にあってますし。でも、霊の大半は生前は人間でした。ボクは、死んだ後、いわゆる悪霊になってしまう人間のほうがもっとこわいもんやないかと思います」
 時々、その想いだけでどんな不可能も可能にしてしまうことがあるのが人間という生き物だ。それは時に時間も空間も常識も理屈も何もかもを凌駕する。ある種の理不尽。
 機材が知覚していないだけなのかもしれない。ヒトが知覚していないだけかもしれない。けれど、今までこの世に存在する“悪霊”“悪魔”の類は概ね死んだ人間の残滓だ。死んだ動物がさ迷い歩く、なんぞという話は殆ど聞かない。死して尚この世に影響力を及ぼすくらい強い想いを持つ生き物、それが人間だ。どんな想いも一定量を超えれば、第三者から見れば恐怖でしかない。
 起源を遡れば動物に行き着くものだって、語られる際には擬人化される。逆に言えば、人は何かを語る際にある程度擬人化をしなければ語ることができない。それを人間の想像力が貧困だからといってしまえばそれまでだが、それ以上に、人間にとってヒトというものは恐怖するに値するものではないのだろうか。
 ――得体の知れない恐怖にさえ擬人化をしてしまうほどに。
 語る必要が、知覚する必要があるのだ。恐怖は避けなければならないものであり、そしてそれは人間がもたらすものだから。
 麻衣は胃の辺りが重くなってくるような気がした。ジョンの言うことは正論だ。けれども、他の誰が何と言おうが、目の前の金髪の神父だけはそういうことを口に出してはいけない気がした。
 「……それじゃぁ、ひとが嫌いみたいじゃない」
 ジョンは驚いたように目を瞠ると、「そんなことはないですよ」とやわらかく微笑む。
 「たしかに、ひとはこわいものですけれど、それ以上にやさしいものだと思いますから」
 それは彼以外の誰かが言えばとってつけたような言い訳にしか聞こえないのだろうけれど。使い古されたようなセオリー通りの言葉もなんとなく信じてもいいという気持ちになれるのは、それをいう者の人間性の生だろうか。
 「まぁ、何にせよ、結局真砂子待ちってことだろ?」
 「さいですね。それであっさり“霊はいる”って方向にあるかもしれませんし」
 「うん――……何時くらいに来るっていってたかなぁ?お昼だっけ?」
 連絡をした際に、お茶の間のアイドル女子高生は『午前は撮影が入っていますから』とか何とかいっていた。とすれば、早くても13:00過ぎ、場合によっては14:00、15:00近くになるかもしれない。
 「原さんでしたら、今日はお昼少し前にはこられるみたいですよ」
 「ふぅん」と、生返事をし、納得したところではたと気付く。
 「……なんで、ジョンが知ってるの?」
 確かに、知り合ってから二年半を過ぎた。まんざら知らない中ではないし、事務所で顔をあわせれば世間話もする。その時々によっては、「じゃぁ、みんなで食事でも」という事だってあるにはあるが。“みんなで”が大前提だ。
 ジョンが真砂子と特別親しかったという記憶はない。
 それでも、お互いの携帯電話の番号とメールアドレスくらいは当然把握しているのだから、何か別用で連絡でもしたのだろうか。そうだとしても真砂子がジョンにメール(もしくは電話)をするということが想像つかない。たとえ別用で連絡をしたとしても、ナル以外の男はアウト・オブ・眼中の真砂子が必要以上のことを話すということはなさそうな気がした。
 麻衣の思考に追い討ちをかけるようにジョンは答える。
 「一昨日、原さんとお会いしたんです。そのときに『撮影は午前だけだから、うまくいけばお昼前には着けると思います』って、原さんがいってましたんで――……どうしました?」
 これには麻衣以上に滝川がショックを受けたようで、ガシャンっという派手な音とともに機材を床に落としてしまった。もっとも、麻衣は機材を抱えていなかったから、落とすものがなかっただけなのだが。
「滝川さん?麻衣さん?」と、心配そうに訊いてくるジョンを尻目に、麻衣と滝川は無言で視線を合わせる。立ち直るまでには少し時間がかかりそうだった。







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