マリン・ブルー

 ダンっ!と、ピアノの鍵盤を叩きつける音がした。
 「何度いったらわかる!?そこはもう半音上げて、ノン・ブレスで唄うんだ!」
 本日何度目かの怒号。普段から割りと気難しげで、愛想が無いけれど、今日はそんなものが比べ物にならないくらいに機嫌が悪い。
 ジェリーロラムは気付かれないように溜息をつくと、手近にあった小道具のロッキング・チェアーに腰を下ろした。
 「ガス……少し休憩しましょう。このまま続けても、いいものはできないわ」
 「――……あぁ」
 気まずそうに、アスパラガスも鍵盤から手を離し、椅子に座りなおすと、ジェリーロラムに向き直った。
 劇場の中には窓が無い。差し込む陽の光がないせいで実感がわかなかったが、そっと壁にかけられた時計を見ると、そろそろ長針と短針が真っ直ぐになろうとしていた。朝早くから、昼休憩を除いて、ほぼ丸々一日ぶっ続けで稽古をしていたことになる。
 好きこそもののなんとやら。とはよくいうけれど、さすがのジェリーロラムも少々疲れた。
 「――ジェリー……。俺は厳しいと思うか?」
 えぇ。とっても。
 と答えそうになるのを堪えて、「そんなことないわよ」とジェリーロラムはいう。
 「でも、今年は少し力を入れすぎじゃないかしら?――いいえ、それが悪いとかいうんじゃないのよ。ガスがより良い 舞台を作りたいっていつもいっているのは私が一番よくわかっているもの」
 「……そう、かもしれない」
 カタン、とガスがピアノの蓋を閉める。
 「けれど、“グロウルタイガー”を演るのならば、どんなに力を入れても入れすぎるということは無いんだよ、ジェリー……若い君には解らないことかもしれないけれど」
 「どういうこと?」
 ジェリーロラムは形の良い眉をひそめる。なんだかとても馬鹿にされたような気がした。
 「私には無理だっていいたいの?」
 「そうじゃない」
 最後まで聞いてくれ、とガスはいう。
 「悪名高き海賊王“グロウルタイガー”。これはただの芝居じゃない。芝居は芝居だが、俺と同世代くらいのヤツラにとって彼は英雄であり、憧れであった……俺たちにとってこれはかつて現実だったことだ。リアルを求めるのならば、どんなにやりこんでもすぎるということはない。また、逆に突き詰めていけばいくほど、全て手の中から抜け落ちていってしまうのさ」
 珍しい。とジェリーロラムは思った。普段口数の少ないガスがこんなにも多くのことを語ることも珍しいし、それになにより、彼の言葉がどこかで要領を得ないのも珍しかった。
 「ジェリー……俺は、今回の舞台が終わったら、“海賊猫の最后”を封印しようと思っている」
 思わず返す言葉が無かった。
 どうして?とそれだけなんとか声を絞り出す。
 「そも、実は再演をする気も無かったんだ」
 と返ってきたのは意外な答え。
 「だが、もしこれをこの世に送り出すことが出来る最後の機会なら……そう思うと、いてもたってもいられなくなった。感傷だ」
 「――最期の、機会?」
 「そうだ。“グロウルタイガー”“グリドルボーン”“ギルバート”将軍に五人のクリュー……全員が揃うことはきっと……二度とないだろう」
 ――ダメだ。
 我知らずジェリーロラムは痛むこめかみへと手をやる。今日はさっぱり会話が噛み合わない。
 「まぁ、もっとも――再演できるかも危ういがね」
 寂しそうにガスは苦笑する。
 “グロールタイガー”が勿論ガスのことで、“グリドルボーン”は他でもないジェリーロラム自身。“ギルバート”将軍はギルバートが。ここまでは決定済みなのだが、後の五人のクリューは現在募集中だ。いや、それ以前に他の皆には“グロールタイガー”を再演することも告げていない。
 『一番メインになっている部分を先に私達だけで完成させてしまいましょう。それを皆の前で披露するの。そうしたら、絶対に協力してくれるわ。ランパスとかタンブルとか頭難そうなヤツラはともかく、コリコにバブ、ジェミマ……小さい子達は絶対に夢中になるはずよ』
 と、言い出したのはジェリーロラムで。
 だから、こんな天気の良かった日でも一日中劇場にこもりっきりだったわけで。
 当然、五人のクリューの配役なんて決まってないどころか、候補もいない。それ以前に協力者もいないはずなのだが……どうやらガスの中ではすでに決定されているような口ぶりである。
 「あの……ガス?」
 「――……あぁ、すまない」
 立ち上がり、ガスはピアノの蓋に鍵をかけ、丁寧にカバーをかける。
 「今日は、もうよそう」
 「でも……」
 じゃぁ、課題だ。とガスはいう。
 「明日までに“グリドルボーン”になってこい」
 ぶちん、と二、三本血管が切れた気がした。

 *   *   *

 「信じらんない、まったく……!!」
 劇場を後にしたジェリーロラムは、珍しく文句を言いながら、普段の道を駆けていた。
 「どんなに頑張ったって、世の中にはできることとできないことがあるんですからね――ほんとうに……」
 ぴたりと立ち止まり、大きく息を吸い込む。
 「しんじらんない!!」
 「うん、まったくだね」
 「!?」
 返ってくるはずのない返事がきて、ジェリーロラムは一瞬どきりとした。首を廻らすと、すぐ傍の家の塀の上に小さな黒猫がちょこんと鎮座している。
 「ミスト……」
 「や。ご機嫌いかが?ジェリーロラム」
 ひょいと塀から飛び降りると、ミストフェリーズはすとんとジェリーロラムの目の前に着地した。
 「割りとよろしくないのよ、ミストフェリーズ」
 「だろうね――で、何が信じられないって?」
 「……そうねぇ」
 ジェリーロラムは首を傾げ、ミストフェリーズを見つめる。ふと思い立ったかのように手をぽんと叩くと口を開いた。
 「大人にはね、大人の事情ってもんがあるのよミスト」
 「あ、ずるいなぁ、ソレ」
 まさか年下相手に愚痴るわけにもいくまい。
 ふと、ジェリーロラムの頭の中に先程のガスの台詞が蘇った。
 『明日までに“グリドルボーン”になってこい』
 まったく……
 「冗談じゃないわよ!!」
 声に出さないつもりが、ばっちり出ていたらしい。
 横を見ると、ミストフェリーズが三歩ほど引いていた。

 *   *   *

 小さい頃、教会を寝床にしていた時期があったが、いつの頃からか離れてしまっていた。教会にはデュトロノミーがいるし、みんなの溜まり場だ。何よりも、ジェリーロラムの昔の弟が未だに此処を寝床にしている。そのため、他に寝床を移しても結局は日を空けずに通っては来ているが、奥の部屋にまで来たのは久々だった。
 「――落ちついた?」
 音もたてずにドアを開け、ミストフェリーズがお盆に二人分のティー・カップとポットを乗せて入ってきた。
 「……ん、ごめんなさい」
 柔らかく微笑んで、ティー・カップを受け取る。
 ジェリーロラムはミストフェリーズが使っている部屋にいた。個室をもってるなんてマンカスはミストにも甘いのね。というと、ミストフェリーズは苦笑した。
 「別に、個室を持っているわけじゃないよ。ていうか、ボクらにそんなものは無意味だしね。ただ、使ってない部屋があったから、ボクが勝手に占拠して私物を持ち込んだら、マンカスは近寄らなくなった。ついでにシラバブにも近寄っちゃダメって言ってる。タガーがたまに来るくらいかな?物好きだから」
 確かに、ジェリーロラムもできれば近寄りたくない部屋だ。ジェリーロラムにとって(即ち猫にとって)使途不明品がごろごろ転がっている。これは比喩ではない。文字通り、本当に無造作に、転がっている。その一つ、大き目のマグカップに恐々手を伸ばしてみると、「触らないほうがいいよ」と素っ気ない返事が返って来た。
 「これは何?」
 「――……ミルクティ過去形」
 「は?」
 「飲み残したミルクティを半月ばかり放置するとそうなる」
 「!?」
 「冗談」
 さっと手を引っ込めたジェリーロラムには視線も向けずにミストフェリーズは「固形カルシウムを火であぶって……」などといっているが、ジェリーロラムには全く理解できない。そんなことよりも『ミルクティ過去形』の方が余程説得力がある。
 「あ、そのお茶は大丈夫だよ」
 出されたお茶にも躊躇って口を付けていなかったのまでお見通しらしい。恐る恐る手に取ると、淹れたてのアールグレイの良い香りがした。
 「毒は入ってないし、賞味期限も切れてない。味も保障するよ。何せ、ボクが淹れたんじゃないからね」
 じゃぁ、誰が淹れたの?とは訊かなかった。そんなことは解りきっている。
 「――……あんまり、こき使っちゃダメよ?」
 「そんなことしないよ。ボクにしては、珍しくこの上なく大切にしてる」
 その発言自体がすでに大切にしていない証拠だといいたかったが、ジェリーロラムはその言葉を飲み込んだ。今此処でそんなことを言っても仕方がない。
 「――で?」
 どうしたの?とミストフェリーズは暗に訊いてくる。
 「君は何の話がしたいの?今日のお天気の話でも、晩御飯の献立の相談でも、ボクは真剣に受け止めるよ」
 「――……ただの愚痴でも?」
 「君がお望みとあらば」
 「前々から気になっていたんだけど、今話しているのは何枚目の舌かしら、ミスト?」
 「失敬な。いくらボクが天才だからといっても舌は一枚しかないに決まっているとも」
 「そう……」
 何だか毒気を抜かれた気分になって、ジェリーロラムはすとんと肩を落とした。
 「あのね、ミスト」
 「何?」
 「『明日までに“グリドルボーン”になってこい』って言われたら、私はどうするべきかしら?」
 「―――――……え?」
 もう一回いって。と呆けたように聞き返してくるミストフェリーズの表情を見て、ジェリーロラムは予にも不思議なものを見た気分になった。

 「事情は大体わかった」
 というのが、ひとしきりジェリーロラムからいきさつを聞いたミストフェリーズの言葉である。
 「案外無茶をいうんだねぇ」
 「芝居のことになると、ね」
 ジェリーロラムは苦笑する。
 「私はね、ミスト。そもそもグロウルタイガーが実在したことを今日知ったのよ。ましてグリドルボーンなんて……私 は、グリドルボーンのことを何も知らない。脚本の中でしか知らない。普通ならそれでいいのかもしれないけど、これは現実だったんですって。リアルを求めるには――だめらしいわ……って、あなた、私の話し聞いてる?」
 ふとみればミストフェリーズは大きな書棚を漁り、一抱えもありそうな大きな本を取り出そうとしている。
 「ミスト……?」
 他人の話も聞かないで、と一瞬怒りそうになったが、ジェリーロラムが口を開くよりも先にミストフェリーズが言葉を発した。
 「知らないのならば知ればいい」
 「は?」
 「本当はルール違反かもしれないけれど、特別だよ」
 「ちょっと、ミスト……!!」
 ミストフェリーズは取り出した本を床に置き、愛用のステッキで表紙をとんと叩くと、自然に頁が捲れだした。
 「さ。グリドルボーンに会いに行こう」



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長いものばかりですみません。
としか弁解のしようがありませんが続きます。