11:小さな幸せ

     その日の夜、ピコはベッドに腰掛けて、ぼんやりと窓から外を眺めていた。
     そこには何ら変わり映えのしない、いつもと同じ夜の街並みが広がっている。そろそろ日付をまたごうかというこの時間になると、家々の灯りも大分まばらになってきた。それでも、街の夜は明るい。
     暗闇なんていうものは、今の世には存在しないのかもしれない。街灯は皓皓と輝き、家々は灯りをともして、夜の闇を薄めてしまっている。明かりの中にいる人間は闇夜の暗さには気付かない。夜が暗いものだということを忘れてしまっている。
     「浮かない表情だね」
     ゆっくりと声のした方向をみれば、予想通り、そこには彼がいた。彼はいつものようにステッキを両手で構え、いつのまにか悠然と部屋の中に立っている。
     「また何かあったのかな?」
     「――……ん」
     と、ピコは小さく頷いた。
     「ええと……本当だったらここでいつものように『ノックくらいして!』と突っ込んで欲しいところだったのだけれど」
     「……『ノックくらいして!』」
     ピコは半ばやけくそ気味に彼が言った言葉を復唱する。
     「これでいい?」
     「悪かった。認めよう――私が悪かった」
     そういうと、彼はしばらくの間寂しそうに天井を仰いだ。
     彼には悪いが、今日は冗談を言ったり馬鹿をやったりする気にはなれなかった。
     「それで?今度は何があったのかな?」
     わかっていたことだが、どうやら想像以上に彼は立ち直りが早いらしい(というより、懲りないだけかもしれない)。
     ピコは今日の出来事を話そうと口を開き――そして、噤む。
     「ピコ?」
     「ねえ、おじさん」
     「ん?」
     「あれから、何かわかった?」
     「――まだ君に言えるようなことは何も」
     「そう」
     こんなとき、彼はとても正直だと思う。彼のことを大嘘付だというひともいるようだが、彼は嘘をついたことは――少なくともピコに対しては、今迄一度もない。
     『まだ君に言えるようなことは何も』
     ということは、ピコには言えないようなことについては何か掴んでいるのだ。――まぁ、詐欺師であることは否定できないかもしれないが。
     「あのね、おじさん」
     ピコは改めて口を開く。
     「会ったの、今日――やっと会えた」
     「――」
     そう。と、彼は言った
。      「その割にはあまり嬉しそうじゃないね――会いたかったんだろう?ずっと」
     「……うん」
     「だったら、もっと嬉しそうな表情すればいいじゃないか」
     「ん……」
     「嬉しくないのかい?」
     「――ん」
     「それじゃあどっちかわからないよ」
     ピコはふるふると首を横に振った。
     「……嬉しかったの。それは本当」
     「なら、」
     「でもね、すごくかなしくなった」
     何故?と、彼は視線だけで訊いてくる。
     「全然――楽しくなさそうなの。ううん、しあわせじゃなさそうだった。あのときと同じなの。同じように微笑うのよ――すごく寂しそうに」
     生きているのに。
     「あたし、全然そんなこと考えなかった。生きて……元気に生きてさえいればって、それだけ。生きていればしあわせだろう、しあわせに違いないって……どうしてそんなこと考えてたんだろう」
     彼が生きていたときにどれだけ辛い思いをしていたか。
     充分に知っていたはずなのに。
     「――……何がしあわせかどうかなんて、本人にしかわからないことだよ」
     彼は静かにいった。
     「こちら側にいることが必ずしもしあわせとは限らない。そうだろう?」
     それに対してピコはこたえなかった。
     ――本当にそうだろうか。
     「不思議なものでね、こちら側にいる人間の中にはどうしようもなくあちら側に行きたがるものがいるんだよ。そのくせ、あちら側に行ったら行ったでこちら側に帰りたがるんだけど、ね」
     ないものねだりしても仕方がないのに。
     と、彼は続ける。
     「そんなに急がなくても、いずれはあちら側に行くことになるのにね」
     それはすべてのものにあらかじめ決められていることで。
     例外など存在しないのに。
     「ここは確かに悪いところではないよ。でも、どこにだって、誰にだって不満はあるし、嫌なことだってあるんだ」
     逃げだしたくなることだって――
     「それでも、君達はこちら側で生きていかなくてはいけない」
     色々なものを抱え込んだまま。
     それでも。
     その言葉にピコは小さく頷いた。
     「彼がどんなに辛くても、彼はここにいるべきだ。そうだね?」
     「――でも」
     ピコは気付かれないように手のひらに爪を立てた。
     「でも、ここにいる間がつらいことだらけだなんて、あたしは嫌」
     環境によっては、そうならざるをえないひと達だって沢山いると知ってはいるけれど。
     「せっかくここにいるんだもの。つらいことだってあるけど、良いことだって一杯あるのよ?良いことが一つもないなら、あたしは嫌」
     「ピコ」
     「だから、あたしの友達がそんな思いしてるのは嫌。あたしが嫌――これって間違ってる?」
     ピコがそう問うと、彼は珍しく声を立てて笑った。
     ――これって笑うところ?
     と、ピコは思ったが、彼がこんなふうに笑うなんて滅多にないものだから、ついつい訊きそびれてしまった。
     ひとしきり笑うと、彼は「すまない」と言って口を開いた(もっとも、まだ少し笑っているようだ)。
     「素晴らしい。なんという自己満足なんだろう」
     「ねえ、誉めてるの?けなしてるの?」
 「   勿論誉めているとも」
     彼はきっぱりとそう言った。
     「そうだね。前に知人が『みんながしあわせになるためには自分のしあわせが必要不可欠です』とかいっていたよ」
     その知人とやらにピコは大いに心当たりがあったが、違っていたら失礼なので、敢えて訊きはしなかった。
     「なら、やることは決まっているね?」
     「――うん」
     驚くことに、今度は自然と、はっきり頷くことができた。
     何でもいい。
     何でもいいから――ほんの小さなことでも、何かしら、しあわせがみつかりますよう。
     つなぎとめておける何かが。
     「ねぇ、おじさん」
     ふと思いたってピコは訊いた。
     「おじさんは?」
     彼にもあるのだろうか。
     何でもいいから、しあわせとよべるものが。
     こちら側につなぎとめておける何かが。
     「おじさんにもある?」
     極めてシンプルに、ピコはそれだけ尋ねた。
     どう訊いたらいいのかよくわからない。こんなとき、早く大人になりたいと少しだけ思う。大人になれば、きっと、もっと気の利いたことが言えるだろうに。
     それでも、長い付き合いのせいか、彼は短い問いが何についてのものか察してくれたようだ。
     「そうだなあ……」
     と、いつものように柔らかく微笑うと、やはりいつものように、手にしたステッキでトンっと床を叩いた。
     「どっかの誰かとおなじようなもんかな」
     
     
     





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