14:寝る間を惜しむ |
夢を見た。 何もない暗いところをひたすら走り続ける夢。 夢の中で、ピコは前を歩くひとの背中を――よく知っている姿をずっと追いかけていた。 ピコはずっと、苦しくなるくらい走り続けているのに、そのひとにはなかなか追いつけない。向こうは大して早く歩いているわけでもないのに、その差はどんどん広がるばかりだ。 まって。 おいていかないで。 そう必死に叫んでも一向に足を止めてくれる気配はない。 もう走れない――そう思った瞬間、その背中はすぐそこにあった。 ピコは慌てて距離を詰め、手を伸ばす。 ――伸ばした手は届く前にふりはらわれた。 カタン、と窓ガラスが揺れる音でピコは目を醒ました。はっとして、机の上に広げたノートから上体を起こす。 「――……風?」 どうやら、机に突っ伏したまま眠っていたらしい。 ここのところ、窓近辺の物音に敏感になっている。そのことをピコは自覚していた。 今のようにほんの少し窓ガラスが音を立てただけでもつい反応してしまう――重症だ。もっとも、眠りも浅かったのだろうけれど。だから、あんな夢をみたのだ。 あれからしばらく経つが、彼は一向に現れない。 彼は姿を見せないときは平気で一月や二月程現れないので、仕方がないといえば仕方がないが(そのくせ、やってくるときは3日と間を空けずにやってくるのだ)。 忘れられた、ということは流石にないだろうが、どうしても不安にはなる。 彼が現れないまま、7月は終わり、いつの間にか8月になっていた。 あの後、結局顔を合わせることもないまま、ピコは予備校の体験入学を終えた。 あのときと似たような時間帯や、同じ曜日に自習室を覗いてみていたが、姿をみかけることはなかった。 まるで、あの日会話をしたことなどなかったかのように時間は過ぎていく。 「――……」 ピコはふるふると頭を振り、そこから先を考えることを止めた。 今はそれを考えるべきではない。 目下最大の悩みは明日のことだ。 明日は補講であった抜きうち試験の再試験がある。先日の試験で、ピコはものの見事に赤点をとった。それはもうまごうことなく。返却された答案用紙にでかでかと赤ペンで書かれた"再試験"の文字は中々衝撃だった。担当教員の険しい表情が忘れられない。 明日の試験でも結果が出なかったら――その先はきっといいことにはならないだろう。母親は真剣にピコを予備校に入れようとするかもしれない。それはできれば避けたい。 ピコはぺちん、と両手で頬を叩き、気合いをいれると、手元のノートに視線を落とした。陽が昇るまでは後数時間ちょっと。ここからが勝負だ。 「今の叩き方、痛くなかったのかい?」 「――……」 全く、なんというタイミングだろう。 内心で溜息をつきながらピコはこたえる。 「痛いわよ、結構。でも、痛くないと目醒めないでしょう?」 「まぁ、それもそうだ」 彼はあっさりと同意する。 いつもならば、このような会話をしている間に窓辺に腰掛けるか、部屋の中に入ってくるかするところなのに、彼は窓の外に――宙に立ったままだった。 「どうしたの?」 ピコは訊く。 「入らないの?」 「お誘いいただけるのはとても嬉しいんだけどね」 と、彼は苦笑すると先を続ける。 「ようやく夜の散歩に出掛ける準備が整ったんだけど――どうかな?」 一瞬、何があったのか――何をされたのかがわからず、ピコはただじっとそのひとを見つめていた。 そして、しばらくして自分の手に視線を移す。 拒絶されたのだと気付くには随分時間がかかった。 どうして。 そう訊けばよかったのかもしれない。 けれども、そのときはそんな単語すら浮かんではこなかった。 ピコが何もできずにいると、向こうが口を開いた。 ――君は、ここにきてはいけない。 発せられた言葉に併せるかのように、肩が揺れた。 「どうかな――って、おじさん、そんな急に……」 「自慢ではないのだけれど、私が来たときに急ではないときはあっただろうか?」 「――ない」 それは初めて会ったときから全く変わっていない。 今も昔も、彼はいつもこうだ。 自覚があるのならば、少しは反省してほしいものだが、どうやら、彼の辞書に反省という単語はないらしい。否、あっても気にしていないのだろう。 彼はちらりとピコの後ろ――机の方に目をむける。 「都合が悪いなら、今日は止めにしようか?私は別にいそいでいるわけでもないし」 はやく、かえった方がいい。 背を向けたまま、続けていわれた。 だったら、一緒にかえろう。 と、ピコがいうと、こたえるように静かに首を横に振る。 どうして? と、今度は直ぐに訊くことができた。 今考えれば、何故そんなことを訊いてしまったのだろうか、と思う。 訊かなければ、その続きを言わせることにはならなかったのに。 ごめん と、彼はただそれだけ呟いた。 「いいに決まってるじゃない、都合なんて!」 ピコは即答した。 これに対して面食らったのは彼の方だったようで、滅多に見せない驚きの表情をし、絶句する。 「言い出したのはおじさんのほうよ?」 「いや……それはそうなんだけど」 彼は二度ほど虚空でステッキを振る。物理的な足場があればトン、トンと音がしたことだろう。 「あー、私が言うのは本当になんなのだけれど……君、ちょっとは自重しなさい」 「してるわよ!充分!!」 「私は別に、君に勉強しろとか模範的に生きろとかいうつもりはまったくないんだが――留年してご両親を泣かせるようなことはできれば避けたほうが」 「なんて失礼な……」 まるで、これではピコが再試験(厳密にいうと、期末試験から数えるので再々試験なのだが)でも及第点をとれないことが確定しているみたいではないか。 彼は帽子をほんの少し傾け、確認するようにピコを見る。 「彼は逃げないよ?」 「それはわからないわよ、おじさん」 「――」 例え、逃げたりしなくても。 今日会える相手に明日もあえるかわからないことを、ピコはよく知っていた。 「だから、あたしは会えるときには会っておきたい」 本当にたいせつなものは何か。 それを間違えるようなことだけはしたくはない。 「それにね、今あっておかないと後悔すると思う」 多分、すべきだったのは同情ではなく。 ふりはらわれても、あの手をとることだったのだろう。 「――そうだね」 と、彼は呟いた。 そして、柔らかく微笑うと、いつものようにピコに手をさしのべる。 「では、いこうか」 ピコは頷き、その手をとる。 「あぁ、そうだ」 と、彼は思い出したかのように自らのコートのポケットを探った。 「これを」 「――何、これ?」 ピコはまじまじとそれを見た。 掌の中にすっぽりと収まってしまいそうな何かが紙にくるんである。 「何かあったら使いなさい」 「何かって?どうやって使うの?」 「大丈夫。その時になればきっとわかるから」 彼はいつものように微笑ってそういった。 ピコは「ふうん」とあいまいに応えて、それを受け取り、ショートパンツのポケットに押し込んだ。 彼がこういう反応をするときはこれ以上何を訊いても無駄だ。答えてくれないことはわかりきっている。 そんなことに無駄な労力は使いたくない。 「それと、さっき、言い忘れたけれど。私以外のひとがやってきても、簡単に、部屋に『入らないの?』とか訊いてはいけないよ」 「……」 そろそろ彼に対する見解を改めるべきかもしれない。 |
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