15:電灯に照らされて |
真っ暗な夜道を彼は歩いていた。 厳密にいえば、真っ暗ではない。終電まで後何本というこの時間になりと家々の灯りは少なくなってきているが、駅前のネオンはまだまだ元気だし、一本道を入った住宅街にだって街灯はついている。 彼が歩いている道もそうだ。等間隔で街灯が立ち並び、彼の足下を照らしている。確かに、暗い道ではあるが、視界に不自由するということはなかった。 りりり、とどこかで虫の声がした。 本当の暗闇というものを彼はよく知っている――いや、知っている気がする。 本当の暗闇とはこういうものではない、と彼は思っていた。 それは、伸ばした手の指先すらも見えないような、虫の鳴く音も聞こえないものだ。 何もみえず、何も聞こえず、誰も存在しない世界。 熱くて寒くて痛くて苦しくて――苦痛以外何も存在しないような、そんなところなのだ、きっと。 けれども、もしかしたらそれすらも感じないのかもしれない。 何もないというのは自分もないのだから。自分を認識することができないのならば、それらを感じることもないだろう。 彼はふと立ち止まり、空を見上げる。 月が出ていた。 頼りなく細い月だ。 晴れた夜空には、目を凝らしていれば星も見えたのかもしれない。けれども、街灯や家々の灯りに消されてしまっている。 否、仮に人工の明かりがなかったとしても、彼の視力では見えないだろう。いつの頃からか下がり始めた視力は、ここ最近益々下がっている。日常生活にはさほど支障はないが、裸眼で星をみるなんて夢のまた夢だ。 ――眼鏡でもかけてみようか。 そう考えて、即座にその案を却下する。 そんなことをしたら、また周りに何か言われる。 面倒事はもうこりごりだ。 後数ヶ月――卒業してしまえば、流石に縁も切れるだろう。それまで、わざわざ自分から何かをする必要はない。 ただ、黙って、通りすぎるのを待つ――それだけだ。 目を閉じて、耳を塞いで、何も感じないようにすればいい。 彼は苦笑した。 それでは、死んでいるのとあまり変わらないではないか。 そう思ったからだ。 人が死んだらどうなるのか。 死んだ人間がどうなるのかはわからない。死んで生き返った人間なんていないのだから。これは、多分これから先も変わらないだろう。 世にいう、臨死体験。あれも少し違う気がする。結局、生きているのだから、やはり死んでいないのだろう。 死んだ人間は生き返らない。 これは真理だ。 それでも、彼は人が死んだらどうなるのか――死んだ人はどこにいくのかを知っていた。 何故かはわからない。 先日、偶々出会った少女にも答えたが、彼は臨死体験なんてしていないし、まして死んでもいない。 17年間、大きな怪我も病気もなく生きてきた。 それなのに、彼は知っていた。 理屈をすべて抜いて、ただ知っていた。多分、生まれたときから、ずっと。 人は死んだらどうなるのか。 人は死んだら、あの暗闇のなかにいくのだ。 何も見えず、何も聞こえず、何も感じない――何もないあの場所へ。 ――それでも、何か感じるとしたら、 それは寂しさかもしれない。 そんなふうに思う。 彼は溜息をつくと、視線を戻した。 「こんばんは」 ふいに、声がした。 慌てて周りを見渡せば、すぐ近くの街灯の下に女の子が立っている。 彼より少し年下の、利発そうな女の子だ。いつの間にそこにいたのだろうか。ついほんのさっきまで、そこには誰もいなかった気がする。 「君は――」 その女の子には見覚えがあった。先日、偶々出会った女の子だ。 彼女はにっこりと笑うと、口を開いた。 「あたしのこと、覚えてる?」 「ああ、あのときの……」 臨死体験少女。という言葉を彼は呑み込んだ。 彼はその女の子のことをそう記憶していたが(何故なら、初対面でいきなり「臨死体験てしたことある?」と訊いてきたからだ)、流石に本人に向かってそうはいえない。 「……自動販売機の前での……」 仕方なしに彼はそう返した。 彼女はホッとしたように頷く。 それにしても、だ。 「こんな時間にどうしたの?」 もう後半時間程で日付を跨ぐときがくるだろう。 このくらいの歳の女の子が一人でふらふらしていいような時間ではない。 「君、家は?この辺の子?近くなら送っていくから」 比較的治安の良い街ではあるが、いつの時代、どこの場所でだって、女の子が夜に一人で出歩いて安全であることなんてないのだから。 「家は……この辺じゃあないんだけど」 「この辺じゃない?」 彼は眉を寄せる。 だとしたら、こんな時間にこんなところで何をしているのか。益々わからない。 大体、普通の親がこの時間にこのくらいの歳の女の子を一人で外に出すだろうか。 最近、変な親が増えているというが、この子の親もそういう人種なのだろうか。 「一人?家の人に連絡は――?」 言葉の途中で彼は口を噤む。 彼女の後ろに人がいるのに気付いたからだ。 男の人だ――歳は、中年にさしかかったくらいだろうか。かろうじて青年と呼んでも差し支えはないのかもしれない。彼の親よりも大分年下だろうが、保護者としては申し分ない年齢だ。 「なんだ、一人じゃないんだね」 彼は、彼女の後ろにいるひとに向かって頭を下げた。 保護者同伴なら、他人の彼が心配する必要はない。 それにしても、何故すぐに気付かなかったのだろうか。 そう思いながら、改めてそのひとを眺め、そして即座に納得した。 そのひとは、この暑い中、濃紺のロングコートを着ていたからだ。コートの色が闇夜に溶けて、とても見え難くなっている。そのため、ぱっと見ただけでは誰もいないように視えるのだ。 それにしても、この季節にロングコートを着ているというのは些か尋常ではない。 やはり、変なひとであることには変わりないだろう。 「――……みえるの?」 彼女は驚いたような表情で、彼女の後ろに立っているひとを指す。 「視える、けど?――お父さん……お兄さん、かな?――はじめまして」 と、彼は再び頭を下げる。 それを見た彼女達は黙ったまま、やはり驚きの表情で顔を見合わせた。 「ところで」 彼はもう一度訊く。 「こんな時間にどうしたの?」 彼女は一度何かを言おうとして口を開き、「んんと……」と、言いながらその言葉を口内に戻してしまった。 そして彼女は一度深く呼吸をし、ゆっくりと、躊躇いがちに言った。 「少し……話したいことがあったの」 |
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