07:何もないところで

 ぐにゃり、と視界が歪んだ気がした。
 おや。と思ったときにはもう遅く、次の瞬間には猛烈な倦怠感と浮遊感が身体を襲う。
 ピコは反射的に瞳を閉じた。
 一呼吸おいて瞳を開くと、そこは今さっきまでいたピコの部屋ではなかった。
 見慣れた机も椅子もベッドも何もない――それ以前に、そこには壁も天井も床さえなかった。
 何もない暗闇。
 不思議なことに、暗闇の中でも視力を失うことはなかった。真っ暗なところにいるはずなのに、何故かよくみえる。もっとも、みえたところで何もみるものはないのだけれど。
 普通なら、恐くて泣き出したり、パニックをおこしたりするのだろうけれど、ピコは落ち着いていた。
 こんなことには慣れっこだからだ。
 これは危険でも何でもないことだと知っている。
 はぁ。と、ピコは溜息をついた。
 「おや。珍しいね、溜息なんて」
 ふいに響いた声の方を振り返ると、案の定、彼がいた。暗闇と同じ色のコートを身に纏っているのに、彼の姿ははっきりと闇の中に浮かんでいる。
 誰のせいだ!
 と、いう言葉を呑み込んで、ピコは再び溜息をつく。
 「あたしだって、たまには溜息の一つや二つつきたくなるの――今日は随分突然ね?」
 「ん?ああ、そうだね……ノックをするのを忘れていたよ。やりなおそうか?」
 「いい。いらない。必要ない!」
 ピコは慌てて首を左右にふった。
 「ところで、」
 と、彼は言う。
 「その後どうかな?」
 「どうもこうもないわよ、全然進展ナシ!」
 ピコは大袈裟に肩をすくめてみせる。
 「それっぽいひとは全然みかけないし予備校はつまらないし、おまけにどっかの誰かはまっっったく連絡してこないし!!」
 眉間に皺を寄せて、できるだけ難しい表情を作る。
 「しょうがないから自分で調べようと思って本とか借りてみたけど、何書いてあるのか全然わかんないし!!」
 「向学心があるのはとても良いことだよ」
 ピコの内心を知ってか知らずか、彼は爽やかに笑った。
 「向学心があったって、わからなきゃ意味ないの。ねぇ、おじさん……おじさんの方は?」
 「ん?何がだい?」
 「とぼけないで。あれから何かあったの?――何か、わかったの?」
 「まぁ、それなりに」
 「教えて!」
 彼は苦笑する。
 「君がせっかく自力でなんとかしようとしているのに、水をさしたら悪いじゃないか」
 「おじさん!」
 時々、彼が何を考えているのかがわからなくなる。
 人の考えることなんてわかるはずもないのだけれど、それとは全く別に。
 もとから、彼はかなり突拍子のないことをするひとではあるのだが、その行動が読めない。どうして、そんなことをするのかがわからない。
 だからといって彼がピコニとって何か害となるようなことをするとか、嫌なことをされているとか、そういうことではなく――試されている、それが一番近いような気がする。
 何のためにかはわからないけれど。
 「あたしが、おじさんを頼ったらいけない?」
 ピコがそう訊くと、彼は何事かを聞き取れないくらいに小さく呟いた。
 「え?」
 「いや、何でもない――頼ったらいけない、ということはないね。目的がはっきりしているならそのために必要なことはなんでもするべきだと思うよ。他に害がないなら、他人を頼ることも利用することも悪いことではないだろう」
 「なら!」
 「参ったな……」
 と、彼は困ったようにいうと、トンっと、手にしたステッキの先で見えない足場を叩く。
 「曖昧なことはいいたくないんだ」
 「あいまい?」
 「確かに、今回の件について私はある確信のようなものはもっているのだけれど……まだ、はっきりとした、何ていうんだい?証拠?裏付け?……がないんだ。だから、君には余計な先入観を持ってほしくないし、私自身確実でないことは口にしたくない」
 「……ずるい」
 「それが私の特権だよ」
 といって、微笑われると、益々ずるいと思う。
 そういわれたら、何もいえないではないか。
 ピコは沢山間違えて、失敗して、回り道をして、時には物凄く恥ずかしい思いだってしながら着ているというのに。
 彼はそれを全部見ているのに、自分のそれはみせようとしないなんて。
 フェアじゃない。
 素直にそう口に出すと、彼は声を立てて笑った。
 「何がおかしいのよ!?」
 「いや。君らしいなあ、と思って」
 何だか馬鹿にされたような気がして、ピコはふいと彼から視線を逸らした。
 「いっておくけど、誉めてるよ」
 「――あんまし、うれしくない」
 全然、誉められた気がしない。
 暗に、馬鹿正直だといわれただけではないだろうか。
 ピコの表情は益々険しくなる。
 彼も流石に拙いと思ったのか、取り繕うかのように苦笑した。
 「そんな表情しないで」
 「――」
 「今、彼等にも調べて貰ってるから……きちんとわかったらすぐに連絡しよう。だから、君は、君のやりたいようにやりなさい」
 「――ん」
 と、ピコは頷きかけ――途中で止める。
 何かが引っかかる。
 “彼等”
 ――彼等って……。
 「おじさん、“彼等”って!?」
 「おや、もうこんな時間だ」
 「ちょっと、おじさん!?」
 「それじゃあ、ピコ。また」
 「おじさん!待ってよ!ちょっと……!!この……っ」

 「×××っ!!」
 文字にするのもはばかられるような単語を叫んだときには、既にピコは自分の部屋にいた。
 「また、逃げられた……」
 と、独り言が虚しく響くだけだ。
 それでも、いつもより悔しい気分にならないのは、
 ――おじさんにも、わからないことがあるのね。
 ということが判明したからだろうか。
 ――それにしても、“彼等”って……。
 ピコの想像が正しいなら(この件に関しては間違いなく正しいだろうが)、予想以上に事は大きく、根が深そうだ。
 ピコは、本日何度目かの溜息をつく。
 何もないところからいつもの部屋に帰ってきた疲れがどっと襲ってきた。







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