09:人違い |
本棚の前でピコは立ち尽くしていた。 かれこれもう何分になるだろうか。一点を凝視し、険しい表情で睨んでいる。 目当てのものはすぐそこにあるというのに、それを手にするには、どうやら後数センチちょっとの身長がピコには必要なようだ。棚の規格が大人用なのだから仕方がないのかもしれないが、小柄なピコには本棚の一番上の段から資料を取り出すことは非常に厳しかった。普段、周りが難なく資料を取り出しているのを見て、自分の身長のことを失念していた。 目一杯背伸びをして、若干飛んだり跳ねたりしてみたが、ほんの少しだけ、足りない。 はたからみたらマヌケなことこのうえないのだろうが、ピコは真剣だった。 自習室とは、文字通り自習をするための部屋だ。 基本的に勉強をしていない者はいない。時折、勉強に疲れて寝ている姿がぱらぱらとみえるが、その程度だ。 私語は勿論御法度。 喋りたい奴はお外でどうぞ。 勉強しない奴はくるな。 そんな雰囲気を醸し出している。 いくつかの空き教室を談話室代わりに常に解放しているのだから、勉強をしたくなければそこで時間を潰すなり何なりすればいいのだ。 とはいえ、ピコは目的があって自習室にいる。 その目的は勉強とは全く関係ないものだが、とにかく、自習室にいる必要がある。 だったら、ついでに講座の課題なり何なりを終わらせてしまえ。 そう考えるのは自然だった。 どうせ、待つこと以外にすることなんてないのだから。 そんなわけで、課題に必要な辞書を借りに行こうとして、今に至る。 辞書は変わらず本棚の上からピコを見下ろしている。五冊ほど同じ辞書が並んでいると、それらに思いきり馬鹿にされているような気がして、何だか腹立たしい。 とはいえ、どんなに意地を張って頑張っても、ピコの背がいきなり伸びるわけではない。 はぁ。と、ピコは溜息をついた。 仕方がない。どこかから椅子を持ってきて踏み台にしよう―― そう考えた瞬間、ふと視界が陰った。 「?」 なんだろう、と思ったときには、背後から手が延びてきて、ピコがとろうとしていた辞書をすっと引き抜く。 「はい、これ」 そういって辞書を差し出してきた相手の顔は記憶の中にあったものと違わぬものだった。 ――――いた。 真っ先に浮かんだのはその一言だ。 否、それしか浮かばなかった。 嬉しさとか、懐かしさとか、そういうものもあったのだろうけれど、それらが出てくるのはもっと後のことで、 ただ、彼がいた。 何より重要なのはそれだけだ。 彼は呆けたように見返すピコに辞書を渡すと、そのまま何も言わずにさっさと自習室を出ていってしまった。 パタンと閉まる扉の音を聞いて、ピコは我に返える。 次の瞬間、ピコは大慌てで閉まったばかりの扉を大きく開け放っていた。 「まって!」 乱暴に扉を開け放ち、ピコは廊下へと出る。急いで視線を左右に走らせ、彼の後ろ姿を確認すると、それを追って走った。さほどぼんやりしていた自覚はないが、思ったよりも彼との距離は開いてしまっている。 しんとした廊下にバタバタと慌ただしい足音が響く。“廊下では静かに”とお決まりの張り紙がしてあるが、そんなもの気にしてなどいられない。 「ねぇ、」 相手は普通に歩いているだけなのだから、直ぐに追いつくだろう。そんなあたりまえのことは十分によくわかってはいた。けれども、どんなに走っても何故だか永遠に追いつけないような気がした。 彼まで後数メートル、というところで、彼が急に立ち止まった。 ――やった! 走る速度を上げ、ピコはラストスパートをかける。 後―― 「まって……!」 ピコはとっさに彼の腕を掴んだ。 それと同時にガコンっという耳慣れた音がする。 「……ガコン?」 おそるおそる音のした方を見ると、そこには自動販売機があった。そこで初めて、彼がどうして急に立ち止まったのかを唐突に理解する。ピコが視線を下にもっていくと、取り出し口のところに缶がひとつみえていた。 『あったか おしるこ』 と、あずき色に塗られた缶の側面には描いてあった。 この季節にはみているだけで暑くなるようなデザインの缶だ。 何ともいえない表情で彼はピコを見つめた。 彼が自らの意思でそれを買おうとしたのではないということは明らかだった。 なるべく視線をあわせないようにしながら、ピコは気まずそうにいう。 「――あの、ごめんなさい……それ――あたしが飲みます」 プシュっと、缶のプルタブを開ける小気味良い音が響いた。 「落ちついた?」 そう問われ、ピコは曖昧に頷いた。 「あの、さっきはごめんなさい」 「いや――別に。それより、熱くない?それ?」 「――」 熱いです。 とはいえなかった。何故ならこのくそ暑い中でおしるこを飲むなんぞという自殺行為めいたことをしなくてはならないのは、他ならぬピコ自身のせいだからだ。因果応報とはこういうことをいうのかもしれない。 それでも、かろうじて嫌になるくらい暑いということがないのは、建物全体に冷房が入っている所為だろう。どこからともなくひんやりとした空気が流れてきて、剥きだしの肌を撫でていく。それはむしろ、ときにぞっとするくらいの冷たさだ。 「あの、これのお金――自習室戻ったら払うから」 「いいよ、気にしないで――それより、僕に何か?」 「え?」 「『まって』って」 ああ、そうだ。並んでまったりとお茶をするために呼び止めたわけではない。 ピコは改めて深く呼吸をする。 「あの、辞書……どうもありがとう」 「ああ、そのこと。ついでだったから、いいのに」 「ううん。でも、すごく助かったから」 ありがとう。 と、ピコはもう一度いう。それに対して彼はこたえず、代わりに苦笑した。 「あまり見かけない顔だけど?」 「体験入学なの。今月一杯」 「体験入学?この時期に?――じゃあ、受験はまだ関係ないのかな?」 「うん。まだ先――今年受験なの?」 「ああ。もう高3だから」 ――やっぱり。 と、ピコは思った。 「どこか行きたいところがあるの?」 「え?」 訊こうとしていたことを逆に訊かれ、ピコは一瞬戸惑った。 「……ええと、まだ――そういうのは特に考えてないの」 そう。 と、彼は呟いた。 彼とこんな話をする羽目になるなんて。あのときは全く想像もしていなかったことだ。 ピコは先程彼がしたのと同じ問いを返した。 彼は少し驚いたような表情をしたが、すぐに微笑って、「あるよ」と答える。 「でも、内緒」 「どうして?」 「どうしても。受かったら教えてあげるよ」 「――」 受かったら。 その先をいうべきか。 仮に、あのままなら――それはないことをピコは知っている。 彼が受験をして、その後どうなったのか、どんな選択をしてしまったか――いえば、彼はどうするだろうか。 けれども、この彼があのときの彼とは限らない。 だったら、まだ、いうべきではないだろう。 ここでそんなことをいうのは、彼に対して失礼だ。 「じゃあ、3月になったら教えてね」 と、ピコはなんとかそれだけ返した。 それから、いくつか他愛のない話をした。 予備校のこと、学校のこと、親のこと――けれど不思議と、お互いのことは話さなかった。 「周りの友達はみんな塾とかに行ってる?」 「ううん。周りはまだ――三年生になってからじゃないかな」 ピコがそういうと、彼は寂しそうな、哀しそうな――そんな表情をした。 お節介かもしれないけど。と、前置きして、彼は続ける。 「友達とは遊べるうちに遊んでおいた方がいいと思うな」 「?」 「そのうち――遊びたくても遊べなくなるから」 「どういうこと?」 「勉強なんて嫌でもやらないといけないときがくるんだ。そうしたら、友達と遊んだりなんかできない。自分が遊びたいと思っても、相手の都合もあるしね」 「……」 「一緒に馬鹿やれる友達がいるなら、大切にしておいた方がいいと思うよ」 ピコは二度、三度とゆっくりと瞬きをする。 「……いないの?そういうひと?」 「さあ?どうかな――今は、いないのかもね」 そういうと、彼は空になったアルミ缶をぐしゃりと潰して、ゴミ箱に放った。 「そろそろ時間だ――それじゃあ」 「あの!」 ピコは立ち去ろうとする彼を呼び止める。 「これ、ごちそうさま!後……ええと、ごめんなさい!失礼なこといって!!」 「いいよ。こっちこそ悪かったね――まぁ、老婆心だと思って聞き流して、」 「ううん!ありがとう。おはなししてくれて……あたしは嬉しかった」 一気にそこまでいうと、ピコは一呼吸つく。 「あの、ひとつだけきいてもいい?」 「どうぞ?」 「――臨死体験ってしたことある?」 言ってしまってから“しまった!”と思ったが、もう遅い。 我ながら、なんてマヌケな問だろう! 会話には流れというものが少なからずあるが、これはおもいきりそれを無視している。場違いな発言もいいところだ。 彼に会うことばかり考えていて、肝心の、“会ったらどうするか”については何も考えていなかった。自分の馬鹿さ加減には呆れるしかない。 ピコは気まずそうに彼の様子を窺った。 彼は一瞬口を噤み、妙な表情をしたが(これだけ唐突な問いだ。当然だろう)、すぐにもとのように微笑うと、口を開く。 「ないよ。丈夫で健康なことだけが取り柄だからね」 |
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